ロマンスカーミュージアムはご縁もあって度々足を運んでいますが、今回は7月15日(水)から開催中の企画展「VSEができるまで-ときめきをつくるデザイン・技術・サービス-」に所定の申し込みの上で行って来ました。
設計段階において検討された複数の模型や図面、デザイン資料が、テーマごとに展示されています。
車内イメージを手描きしたコンセプトスケッチや、車体形状の検討に用いられた1/20スケールの木製模型などが紹介され、車体傾斜装置をはじめとした技術的特徴について、図面やイラストを用いた解説パネルが展示されていました。
1階ロマンスカーギャラリーでは、VSE50000形の設計段階において検討された複数の模型や図面、デザイン資料が展示されています。
OER3001氏の眼に入った最初のものは、体調を崩されて療養中の佐野衡太郎さんが1/40、32ミリゲージで製作された模型。
これまでも運転会では度々優雅な走りを拝見していましたが、遂にロマンスカーミュージアムに寄贈されたとのことです。
2005年に営業開始されたVSEの開発が開始されたのは2002年頃。デザインを担った岡部憲明氏による検討過程が、スケッチや模型で紹介されています。
全体のフォルムが練りあがって、色彩を検討する段階では、シルバー案もあったようです。
前後しますがこちらは先頭の展望席と乗務員の姿勢、両者の制約の中での運転席検討。
展望席。
客室の天井高と側窓、座席配置。
この中でOER3001氏が一番興味を抱いていたのは、車体傾斜装置をはじめとした技術的特徴でした。とりわけ空気ばね位置を高くした連接台車の構造。
これが語られる、製造担当・日本車輌製造株式会社の新村 浩氏と、小田急電鉄で車両開発に携わって来られたロマンスカーミュージアム館長 吉久治朗氏との対談でした。
ゲリラ雷雨の下、もの凄く興味を惹く内容でした。PowerPointでまとめられたVisualaidは、公開しづらい内容もあっただけに「公開禁止」です。
残念ながらVSEは引退してしまいましたが、VSEに採用された技術はGSE70000形は勿論のこと、JR東海HC85、315系、JR九州YC1系、台湾TEMU2000系(プユマ)など、数多くの車両に生かされているようです。
もう一度、最高の乗り心地を実現できる「連接」車両を造って欲しいな、と言うのがOER3001氏の願いです。
ここ暫く海老名周辺に関連する話題を取り上げていましたが、OER3001氏が撮っていた海老名で一番古い記録はこれでした。
海老名駅北方の跨線橋から、田畑を前にする旧海老名駅を捉えた一枚。1997(平成9)年、小田急線開業70周年記念「写真展」に応募して「優秀賞」、小田急百貨店の商品券を頂きました。
同年8月16日から31日まで、イベントカー8262×6の車内に掲載されていました。
当時の海老名駅、この時は既に相鉄線との分岐線は撤去されていて2面2線でした。
翌年、小田急をオーバークロスする相鉄車内から撮っていた海老名駅には、新宿方に跨線橋が設けられていたようですが、跨線橋はいつ新設されたのか?
小田急の海老名車両基地となる田圃の向こうを、ED10型に牽かれたワム、トラ+トフがのんびり走っていました。
この地の今は斯様な状況。冒頭の写真と同じアングルで撮影したかったのですが、跨線橋には目隠しフェンスが設けられてしまい叶いません(涙)。
半世紀、正確には56年も経て、海老名はすっかり大都市になりましたね。小田急電鉄の本社が設けられることになるなんて、まったく想像できませんでした。
相模国分寺跡へ行ってみたのは、実は「海老名市温故館」訪問が目的でした。「海老名・なつかしの鉄道」が開催されていることを知ったから。
海老名という地は、小田急の他には相鉄とJR相模線が集まります。特に相鉄と国鉄の歴史は複雑で。
OER3001氏にとっても懐かしく思えるシーンが多く紹介されていました。
OER3001氏は相鉄が小田急への乗り入れを中止した後からの記録、記憶しか無いのですが・
写真と模型、一部実物資料などから構成されています。
かなりの車種のNゲージ模型が、お名前は表示されていませんでしたが「個人所蔵」として展示されていました。
非電化時代の国鉄もあります。
会期は8月30日まで。まだ時間はあるなんて思っていると逃してしまいます。
強烈な夏の日差しの下、前から一度行ってみたかった相模国分寺跡へ行ってみました。
いつものロマンスカーミュージアムとは逆方向、海老名駅中央から東方向、市のHPには「海老名駅の東側約500メートルの台地上にあります」とありますが、1キロ弱の歩行距離でしょうか、それでも暑かった暑かった。
国分寺跡は、1921(大正10)年に国の史跡に指定され、1965(昭和40年)代に入り発掘調査が行われており、8世紀中頃には創建されていたと考えられる、貴重な史跡です。

これは上図左側の七重塔跡とのこと。
開設板には興味深いことが書かれていて、711(天平13)年に建てられたようです。
上部は柱を支えた礎石が並んでいました。
そこから南に少し下がった場所、塔や金堂など主要な建物を囲む回廊と、その中に入るための正門である中門があったようです。
東西21m、南北11m程の土台(基壇)上に建つ瓦葺の建物だったと推定されています。回廊も長いこと。
これらのことは、この横にある海老名市立郷土資料館「海老名市温故館」を訪ねるともっとわかります。
模型で当時の様子が再現させています。
先に紹介した中門から眺めた回廊の中の様子が良くわかります。
なるほど、海老名駅東側のビナウォーク (ViNAWALK) に建つ塔は、この1/3程のミニチュアだったのですね。
小田急線・新原町田(現・町田)駅上に小田急百貨店町田店が開業して50年ということから、町田市の公共施設で開催中の「町田小田急展」に行って来ました。
本日7月28日(火)には、ロマンスカーミュージアム学芸員である知野芙佑子さんの講演も予定されていますが、既に150名の定員に達する人気ぶりです。
会場は町田市生涯学習センター(町田センタービル7階)のミニギャラリーということで、本当に“ミニ”ではありますが、“見に”行った価値はありました。
町田市内の小田急駅は、新宿方から鶴川、玉川学園前、町田の3駅。中でも町田駅はJR横浜線との乗り換え客も多く、2025年度における1日の平均乗降客数は262,307人と、小田急全70駅の中では新宿、代々木上原に次ぎ3位です。
高校生の時、新原町田駅から通うクラブ女子と少しでも長く一緒に居たいと思い、何度か送って(と言うより電車に乗っていたかった)行った時はまだ、このギャンブレル屋根(切妻二段勾配屋根、混同されることが多いマンサード屋根は寄棟二段勾配屋根)の駅舎だったように記憶しています。
玉川学園駅は、玉川学園創立者の小原國芳が学園開設にあたって学園用地と周辺の土地を取得。学園の要望と用地提供を受けて小田急開通の2年後となる1929(昭和4)年4月に開業した駅です。
橋上駅舎となった1970(昭和45)年、小田急で初めての自動改札機が試験導入されています。
鶴川駅は小田急線開通の1927(昭和2)年当初からの駅ですが、1958(昭和33)年当時にはここから分岐して津久井郡城山町に至る21.4㎞の新線計画があったことは知りませんでした。
OER3001氏が知る鶴川駅は、海側(写真右)に畑が残る長閑な駅でしたが、今は駅の改良とともに駅周辺の大規模工事が進行中です。
市の中心部である町田駅はロマンスカー停車駅でもあるだけに、歴代のロマンスカー車両(SEシリーズ?)も紹介されていました。「SEシリーズ」としたのは30000形のパネルが何故か無かったから。ここでも密かに“30000形はEXE、ロマンスカーではない”と抵抗していたのでしょうか?
ミニ展示ではありましたが、海老名へ向かう途中で立ち寄ってみた次第。酷暑の中、涼を取りつつ楽しめた内容でした。
早々に行って来ました。
OER3001氏としては1700系そのものではなく、このために木村則之氏が製作された1/45・32㎜ゲージの模型を拝見するのが目的でした。
車体はペーパー製で1711-1712のユニット。
台車、床下機器類、屋根上のクーラーは、プラバンなどで製作した原型を基に、樹脂流し込みという力作。
座席はどうだったか、先日説明を聞いていたのに記憶が飛んでしまいました。
ずらり並んだ主抵抗器も樹脂流し込みですが、それより原型を作られた工程に頭が下がる思いです。
この模型、所謂“展示用模型”ではないのですよ。しっかり吊り掛けモーターで、ちゃんと走るんですから。展示終了後の運転会で、走行シーンを見るのが楽しみです。
この展示スペースへは、階段を上がりこの通路を行かねばならず。少々アクセスに難があります。
しかし折角なのでと、“スペースシアX”が通過する模様を、背後のスカイツリー共々カメラに収めることができました。
会期は10月18日(日)まで。素晴らしい自作模型をじっくり観察しに、是非行ってみてください。
都内某所個人宅でのイベント、前半は運転会。後半は浅草に移動して神谷バーで暑気払いと言うことだったので、模型の荷物は少なめにして参加させて頂きました。
車体乗せ換え改造前のデユニ1001なら1両でも「列車」ですが、愛嬌でワフを連結したりして。隣に並ぶのはKさんの作品。なんとイタリアのLIMA社が103系を作っていたのだと。それを秩父鉄道バージョンに加工、お見事でした。
デユニに繋げたワフは天賞堂製品を加工したもの。KATOやエンドウ製のワム、ツムなどの殿に繋げ、東芝40t電機(天賞堂)に牽かせて楽しみました。
刺激を受けたのが、OK氏が全ペーパー自作された183系9連。実にお見事な作品でした。
神谷バーに場所を変えて、主宰のSUさま他ご参加のみなさまとの楽しい会話は、時間が過ぎるのも忘れてしまいます。皆さまありがとうございました。(今回も)すっかり飲み過ぎてしまい、冴えない朝を迎えることになってしまい反省²(涙)。
白板紙(白ボール)から切り出した妻板に、アイボリー紙をぐるりと巻くように接着して、ペーパールーフの展開寸法を割り出したのはいつだったか、既に相当の時間が流れました。
これを型にして、構造的に強くしなければならない妻板をアガチス材で試作した時からも、相当な月日が流れてしまいました。
色々と悩んだ挙句、妻板の材料には厚さ1㎜のMDF板を採用することにして、必要数をケガくのは相当メンドクサイので、図面のコピーを貼って切り抜くことにしました。
MDF板は外周を切り抜くのはまだ良いとして、貫通路を開けるのには相当な力が要って、カッターを持つ手の方ではなく、材料を押さえる手の方が腕が痛くなります。
真鍮工作同様に糸鋸で抜く方法でも、いやそれより楽と思ってカッターで抜いたらホント疲れます。それでも気長に一枚、また一枚と気長に取り組みここまで辿り着きました。
これで“終わり”ではなく、ま~だまだ。だから先は全く見通せません(涙)。
OER3001氏にとって「横須賀線」と言えば、“湘南電車の顔したクリームと濃紺の電車”でした。1960年前後のデパート(白木屋、東横、伊勢丹、松坂屋など)では、3線式Oゲージの“湘南電車”を“横須賀色”に塗った模型も売られていましたっけ。
それが、“東海型”を3扉セミクロスシートにした111系に代って行く時代、東京駅の南端にハーフサイズカメラを持った高校生によって撮られていたのがこの光景。
背後のビル、奥は東京都庁でしょうが、手前のビル名が思い出せない(涙)。日本航空の本社が入っていて、この10年程後に広報室の深田祐介さんに面会に行くことになるなんて、思いもしなかったことでした。「炎熱商人」を書いて大作家となった方とお話しできたこと、今でも忘れられません。そう言えばありました、この本。
1982年5月に発行された初刊本、自室の鉄道関連書籍と共に大切に保管されていました。読み応えある素晴らしい内容、OER3001氏は文学にだって眼を向けていたのですよ。
並走をテーマにしたら、一部のお仲間に火が着いたようで嬉しく思います。
画像探していたら新たなテーマ発見! ロマンスカー同士の離合シーンを。
最初は1970(昭和45)年の百合ヶ丘~柿生間での3100形NSE同士のすれ違い。津久井道から線路を渡り、田圃の奥の雑木林に登ってカメラをセットした場所は、今の新百合ヶ丘駅付近。この写真、何かのご縁で小田急新宿駅に掲示されたような記憶があります。屋根上にクーラーが増設されない、スマートな時代です。
LSE屋根上にクーラー増設など更新修繕を受けたNSEは、10000形HiSEが登場しても現役バリバリでした。HiSEを撮ろうと、東海大学前~秦野間で追っていたら丁度上りのNSEと。この場所が2024年8月30日(金)に台風10号の接近に伴う大雨の影響で盛土流失となるとは。
代々木八幡の踏切付近も、ロマンスカーが並びやすい場所でした。
何故か7000形LSEのすれ違いは撮れていなかったのか、見つけられませんでした。20000形RSEはたった2編成でしたが、JR東海371系が定期検査中にはRSEが代行でしたので、谷峨駅での交換風景を収められました。
本来のJR371系を「ロマンスカー」と呼んで良いのか? まあオマケと言うことで。
30000形EXEの離合シーンは見つけられませんでしたが、改装されたEXE-αがありました。新松田~開成間の酒匂川橋梁上、富士山を入れるにはもっとズーミングした方が良いのはわかっていましたが、広角気味にしていたお陰で収められた離合シーンでした。
50000形VSEや70000形GSEの“優駿離合”は残念ながら見つかりませんが、お知り合いの高〇△輝さんが、2編成しか無い同一形式車両同士の離合シーンを数多く発表されています。
65年前の1961(昭和36)年がOER3001氏がHOゲージを始めた年。基本的に1/80スケールだったので16番ゲージと称するのが正しいですが、当時はみんな「HO」と呼んでいました。
父と神田のカワイモデルに行き、買ってもらった当時1,950円だったパワーパックは今でも立派に使えます。日頃は手元に置いて、試験や試運転に使っています。このほどそれを更新修繕しました。ことの発端は、ケースの電源ケーブルが出るところのゴム(グロメットと言うのだそうです)が劣化して、ケーブルがケース断面に擦れて危険を感じたから。
そこでどうせならと、一旦分解。先ずは外せるもの外して、外せないものはマスキングして、グレーだったケース本体をマットブラックで塗装しました。
中身は今のアダプターと違って目で見て解る簡単な構造です。AC電流をスライド式トランスに取り込み、セレン整流器を通して逆転スイッチ。そこから出力ターミナルへという流れ。
はんだ付けの部分を点検し、電源ケーブルは新規のものに交換しました。
セレン整流器からの廃線配線は、ハンダ付け部分の劣化状態を確認し、一部再度ハンザ付け。
塗装したケースに新しいグロメットを入れました。この部分が今回の更新修繕の発端。
ゴム足は全て新しいものに交換。せんごく電商でグロメット共々50円/1個でした。
4個とも奇麗なゴム足になりました。これで200円。
最後にカタログにありそうな全体像。プラグ付き電源ケーブルは黒色が入手できなかったので白色で我慢、これが一番高くて820円、2メートルにしました。
ということで新規入手パーツ代が合計1,070円と、安いのか高いのか?
プラグ付き電源ケーブルをアウトレットで見つければ良かったかなと反省するも、まあ65年間も使って来てまだ今後も使うつもりのものだけに、安心できるのが一番です。
「小田急vs京王帝都」の並走を取り上げた結果、「並走」がお仲間のブログに“飛び火”してしまったようです。それも御一方ばかりでなく御二人目も現れました。
調子に乗って、撮りだめていた写真(全てデジタル化済みの筈)を探したら、まあ此処が一番撮りやすい場所でしょうね。原則として3線同時発車、同時到着のようですから。2800系が京都線特急で輝いていた時代もそうでした。
この場所は今、バスタ新宿などが建ち並び、この時代に比べればだいぶ電車が見づらくなりました。この時は山の手線、いや「山手(やまて)線」外回りの103系と中央線各駅停車中野行のカナリヤ色101系が、新宿駅7・8番線に並んで到着でした。
バリバリ働いていた現役時代、度重なる札幌への出張。仕事終えて千歳空港に向かう途中、苗穂で撮っていた寝台特急「北斗星」と183系気動車特急の「オホーツク」の並走。凄まじい重量感で通過して行きました。
代わって近年ではこれ。横浜駅南方の帷子川を渡る京浜東北・根岸線のE233系と京浜急行1500系(1713編成)。これは結構成功率は低いようです。翌月に再トライしてみても叶いませんでしたから。
同じ会社の複々線での並走を狙うのは安易ですが、やっぱり事業体が異なる路線の並走は一番難儀です。だから撮りたくなるのですよね。これなんかまさに「運」としか言い表せません。淡路島を背景に迫るJR貨物のEF210牽引のコンテナ列車と山陽電鉄・普通・須磨行の6000系。
日頃何気なく目にする並走ですが、それを本気で狙おうとするとなかなか撮れない。まさに「運」でしょうけれど、何かの序でにまたやりたくなります。
並走場面って楽しいものですよね。他にも無いものか探してみました。
1981年撮影のこの写真、京王6000系と並走している小田急は、永山隧道を抜けて来たABFM車6連。2300形の間に2200形を入れて6両組成していました。手前は小田急多摩センター行きの5200形で、3列車を収められたのに、京王線の下りは来ませんでした。
大東急から分離独立して50年となる1989年、「京王帝都電鉄」は「京王電鉄」に改称します。その後の撮影で貴重なものになったのは1997年10月の撮影、3100形NSEの「ゆめ70」特別列車が少し先を行く京王8000系の特急を追うシーンでした。
小田急開業70周年を記念してイベント列車「ゆめ70」に改装されたのは1997年でした。登場直後の姿を撮るため、ここで構えていたのに・・・、それまで晴れていた空に急に厚い雲。おかげで隧道部分だけ陽が当たるという悲しい写真になってしまいました。
並走を撮るのは楽しいけれど、なかなか上手く行かないものですね。
戦時中は同じ会社(東京急行)とされていた2社が、1948(昭和23)年に分離独立して間もなく80年となります。
元は小田急の路線だった帝都線(現・井の頭線)を京王電軌に付けて再編された結果が京王帝都電鉄(現・京王電鉄)となった所為じゃないけれど、新宿を起点として西へ向かう2社に何か不思議な縁を感じます。
多摩ニュータウンへの足として、両社は1974(昭和49)年以降は、まるで複々線のように線路を並べ、永山、多摩センターでは駅施設も仲良く(?)並べるようになり、両社の花形車両共演が見られるようになっています。
小まめに記録してきたつもりでも、“並び”はなかなか得られないもので(涙)。冷房車はまだ一部だった1987(昭和62)年は京王5000系と小田急2400形の共演時代。
時が流れて1992(平成4)年は京王6000系と小田急9000形。どちらも地下鉄(10号線=都営新宿線、9号線=営団千代田線)との相互直通運転に対応した車両でした。
そして今日・・・、
残念ながら京王、小田急、両社の5000の並走を撮りたいのですが未だに・・・(涙)。
月曜日の2026年6月29日朝、起きるとスマホに近鉄アプリの報せ。近鉄京都駅発5時12分発の一番電車が脱線したというものでした。現場は京都駅を出て直ぐということで、TV報道と同時に現場画像を探索してみたら、ここ、ここでした。
画像は8A系後部に1233系(と思われる)を連結した急行ですが、事故車両は最新型の8A系4両の第6編成で、2両目後部と3両目前部の台車が大きく右方向に飛び出しました。
鉄道模型を楽しむ身としては、模型的にはたまに発生するような事象なので、原因を色々考えてしまいます。そもそもこの曲線区間に設けられたシーサースクロッシングは模型的には非常に魅力的な存在で、レイアウトに採用したくても自ら設計製作しなければならない代物。調整も難儀であることは言うまでもありません。
京都駅構内の有効長や、線路位置等から効率的に考えて設けた曲線区間(R300?)のシーサースクロッシング 。今後様々な再発防止策が検討されることと思いますが、シーサースクロッシングを東寺方直線区間に移設となると、列車発着の間隔も伸びざるを得ず難しい課題です。
事故車の8A106編成は未撮影ですが、この時は8A109編成。ちょうど下校の京都教育大付属桃山小学校の生徒と一緒に、R300のシーサースクロッシングを通って京都駅に行きましたっけ。
最近のコメント