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「京王帝都電鉄」と銘鈑にある京王線多摩川橋梁が変化しています。
中河原~聖蹟桜ヶ丘間で多摩川を越える鉄橋、1974年4月と、比較的新しい橋梁が架けられています。松尾橋梁株式会社の製作ですね。支柱間22メートルということは・・・
20メートル長の車両が、支柱間にほぼ入ってしまいます。おまけに支柱全てに架線柱が設けられているので、撮影にはうるさくなります。
過去にも紹介済みですが、その架線柱の丸鋼管の新しいタイプへの交換が進んでいます。既に7組が新型になりました。
山側から見るとさらに良く確認できます。今は関連工事を一段落したようですが、いつかは残る柱も新型になるものと思われます。
因みに、3月の状態は下のようでした。違いがお判りいただけると思います。
走るホテル
と言われてデビューした特急寝台列車「あさかぜ」、それまでの客車列車の常識を覆し、固定編成列車となりました。青い車体から、いつしか「ブルートレイン」と呼ばれるようになった20系客車です。
丸味を帯びた最後部車両が、当時の図鑑や絵本に描かれていて、子どもの時の記憶では「ヘッドライトは何処にあるのかな?」と疑うほど、先頭車両だと勘違いしていました。最後尾車両が、列車の「顔」となること自体が画期的だった証拠です。
登場直後の最後尾はナハフでしたが、後に寝台特急からは座席車が外されて、食堂車を除き全て寝台車となりましたが、鉄道博物館に展示されてのはナハネフです。
乗降口上の★は、当時は無かった筈です。3段式寝台が当たり前の時代には、2段式寝台との区別は不要ですから。
さよなら碓氷峠の力持ち
北陸新幹線は、長野新幹線として長野までが開業しました。
新幹線技術が今や、輸出できるほどの国際競争力を持つものになったことは、鉄道ファンとして嬉しいのですが・・・
一方で、横川の駅弁「峠の釜めし」を楽しめなくなったこと、機関車の連結解放を見られなくなったことは寂しいです。
東北新幹線でも活躍するE2系が、「あさま」として走ります。1/20のサイズで展示されていました。
真鍮板を主材料にして作られる展示模型、滑らかな前頭部の表現も見事なものですが、たったこの1両の模型でも、客室には55人分の座席が必要です。しかも、2色の座席が交互に配置されている! それまで正確に作られていました。根気の必要な工作に感心してしまいます。
碓氷峠の力持ち・・・その2:EF63
新線が建設され、アプト式ラックレールに変わって粘着運転が開始されたのは、中学生になった頃だったと思います。大幅にスピードアップされたと報道されていたように思いますが、今から思えば・・・。
まだEF58が花形として活躍していた時代、新型機関車としてEF60が登場。続いてEF61、そして信越線にEF62。どれも2軸台車を3組み使用したB-B-B配置であったところに、このEF63は旧型電気機関車のような3軸台車2組のC-C配置であったのが目を引きました。
この展示用模型は1/20、精巧に作られた運転室内も良く見えるようにと、LEDのスポット照明が添えられていました。
碓氷峠の力持ち・・・その1:ED42
北陸新幹線(長野新幹線の延長)が、長野以西はJR西日本の乗務員が乗務することになったとニュースが流れました。
今の「あさま」しか知らない世代も増えつつある中、「碓氷峠」の知名度も低下しているのでしょうか?
OER3001氏の小学生時代は、日本一ながいトンネルとか、日本で一番標高の高い線路とかに交じって、日本一の勾配として「碓氷峠」は有名でした。
そこで活躍するのがアプト式機関車のED42でした。
小学生のOER3001氏は、ラックレールの当時の線路横を歩くことはなかったですが、この展示模型を交通博物館で見て、ラックレールとはどんなものなのかを知ることができました。
そのラックレール、今でも横川駅周辺で排水路のカバーに使われていたり、柵に活用されていたりしまうが、それらを観察すると、ギアが噛み合っていたところが摩耗していて、興味深く見入ってしまいます。
東京モノレールが開業して50周年だそうです。
そう言えば、開業の1964(昭和39)年という年は、東海道新幹線の開業と合わせて、日本の国が、新しい時代を迎えているという実感をできる年でした。もちろん東京オリンピックもそうです。
12日より、モノレール50周年を記念して「ヒストリートレイン」としての第1弾、1000形を旧塗装としたものが運行開始となっているようです。
この写真は、芝浦アイランドタワー25階からのもの。下を走るのが1000形。左手からすれ違おうとしている2000形に合わせた塗装に変更されています。
この撮影、これはOER3001氏の勤務先が借りていた場所で、既に契約解除しているため、もう入ることはできません。右上のブラウンのビルは、OER3001氏が現役勤務先の芝浦ビル。仕事で何度も訪れたことがあります。
クモハ40と御茶ノ水駅
一昨日の当欄、御茶ノ水駅からの丸の内線をご紹介しましたところで、鉄道博物館の中の御茶ノ水駅を思い出しました。
今も残るプラットホーム上屋が、古き時代の色で復元されたホームに停車するは、立川行の方向板を掲げたクモハ40。車内には戦前のファッションの乗客人形も乗っています。
「ぶどう色」と言われるチョコレート色の車体、手入れが行き届いてとても綺麗です。
この御茶ノ水駅のプラットホーム、いったいどれだけの電車を見届けているのでしょう? このクモハ40含めて戦前の20メートル車、その前の17メートル車、さらには63(73)形、101系、103系、201系、を経て209系、231系、233系。永年の風雪と人の波に耐えているのですね。
休日出勤のついでに、40数年にわたるお付き合いを続ける友人‘きぬやまスカンク’さんの昔のお住まいの最寄駅で撮影。
下りホーム先端で、両国から向かってくる233系です。OER3001氏が若かった時代、何度も通った両国駅前の得意先「LION」ビルが見えます。
上りホームに転じて、OER3001氏の勤務先下車駅・秋葉原方向を見ます。
秋葉原からは下り勾配を下りて来る 「新宿さざなみ」257系。特急なのに5両編成なのですね。
高校~大学の時代、この駅を降りて、‘きぬやまスカンク’さんのお宅に何度もお邪魔したことを思い出します。黄色い101系の他は、キハ28などの気動車準急くらいしか走っていなかった総武線にも、ずいぶん変化しました。
曇りのち雨の予報が出ていた昨日の土曜日、仕事に出かける羽目になってしまいました。
ほぼいつも通りに家を出ても土休日ダイヤのおかげで、平日より時間的余裕が生まれます。その余裕を使って・・・
JR御茶ノ水駅で、神田川を跨ぐ聖橋と丸の内線。折しも早朝に赤坂見附ホーム下からの出火により、丸の内線は銀座線と共に一部区間運休。写真の電車に表示された行先は「臨時」? いや~良く読めません(涙)。
そう言えば、先の鉄道博物館シリーズでご紹介していなかった中に、丸の内線開業時の車両模型が展示されていました。
1954(昭和29)年登場の300形に続き、1957(昭和32)年に増備車として登場した500形。です。真っ赤な車体、太く白い帯に、輝くシルバーのサインカーブといういでたちは、衝撃的でした。
銀座線の新型車両も全面ラッピングで開業時の色になりました。丸の内線にもこの姿を復活させてくれることを祈ります。
旧新橋停車場
1872(明治5)年10月14日が、我が国の鉄道の始まりということは、このブログをご覧にいただくほとんどの方は、子どもの頃から知っていた日本史の一部です。
新橋~横浜間が開業と言われていますが、新橋駅は現在の場所から少々海寄りの汐留、横浜は桜木町でした。その旧新橋停車場も復元されていますが、当時のイメージが、模型で展示されています。
これは、今の海岸通り付近からの眺め。カメラを右手にスライドさせ、今の昭和通りから眺めたのが下の写真。
さらに、この写真の右側を奥に進み、振り返って撮ったのが下の写真。今の日本テレビ社屋の場所からの眺めでしょうか。
貨車や客車の検修設備があります。そして、線路を横切り、再び海寄り(浜離宮側)に行き、今のゆりかもめ汐留駅の場所あたりから撮ったのが下の写真。
鉄道という交通手段が生まれた140年前の状況を、模型で良く理解できます。駅前に並んで客待ちする人力車などから想像するに、鉄道は相当地位の高い人か、お金持ちくらいしか、乗ることができないものだったようです。
マイテ39
昭和初期の時代、豪華絢爛というとこういう感じになるのでしょうか?
このような室内装飾、なんという方式だったのか?桃山ですか?それとも・・・?
確かに手が込んでいますが、OER3001氏は、今斯様な車両が来ても、物珍しささえありますが、乗車意欲はあまり湧いて来ませんね。
そうだ! 思い出しました。 どこか斎場の、棺に最後の別れをする場所に似ているような気がして・・・。 そう言えば宮型霊柩車の感じにも通じるような・・・
なんて言ってはいけないでしょうか?
でも、昭和初期の最上級車両だったことは事実です。特急「富士」の最後部を飾った展望客車。 もしも、これが「ばんえつ物語」の最後尾に連結されたら・・・
いや、考えたくありません。その時代ならではのデザインなのですね。
直流2線式Oゲージ模型
C57蒸気機関車をはじめとする実物車両が展示された「ヒストリーゾーン」を見下ろす2階回廊に、数十メートルにおよぶ長い「鉄道歴史年表」があります。
その長いガラスケースの中には直流2線式Oゲージ線路が敷設され、4両編成の模型が往復走行しています。復元されて賑わう東京駅丸の内駅舎の背景を通過しています。なぜか「つばさ」です。
この写真では流れていて、相当なスピードで走っているように誤解されがちですが、スケールスピードでは40~50キロ程度のゆっくりしたスピードです。
ガラスケースの向こう側の少年も、必死に写真を撮ろうとしています。
鉄道博物館がある埼玉県内の駅を通過中です。車両は485系の特急「つばさ」です。
線路右端は2線になっていて、400系新幹線も停車しています。
この2本の模型が交互に、およそ10分間隔で走っているようです。
コルク道床にPECOのレールを敷設、自動往復運転装置を組み込んだ設備。この長~い直線に、OER3001氏手作りの車両を走らせてみたいです。
EF58
OER3001氏が鉄道に興味を持ち始めた小学1年生の頃、鉄道のおもちゃを「でんかん」と呼んでいる人が多かったです。「でんかん」は電気機関車の略称だったのでしょう。一方、蒸気機関車を「じょうかん」などとは言っていません。蒸気機関車は「じょうき」(蒸機?)でした。
鉄道模型と言うにはあまりにも精密さに欠けていた、当時の3線式Oゲージで、OER3001氏の鉄道模型人生が始まりましたが、最初に買ってもらったのは当時の花形機関車であったEF58をショーティーにしたEB58。その後、もう少し長い車体のが欲しくて買ってもらったED58。それらは全て、グリーンの濃淡に塗り分けられたものでした。
その原型になった機関車、この「EF58 4」試験塗装だったようです。
まさに試験塗装だったとのことですが、おもちゃの世界では標準色(?)になってしまったような大好きな塗装です。ガラスケースの中に、その大型展示模型が展示されています。
6月10日「時の記念日」に、亡き父に初めて買ってもらった模型(的なおもちゃ)を思い出しました。
ED46
OER3001氏が小学生の頃、ピンク色の電気機関車が登場したというニュース。当時はそう聞いても、印刷媒体のほとんどは白黒印刷だったので、「ピンク」の度合いがわかりませんでした。
話題をまいたその機関車は、早速プラモデルとなって発売されました。確かオリエントというブランドで、プラスチック製のエンドレスレールが同梱され、マブチモーターで走らせるというもの、350円だったような記憶があります。
早速購入し、組み立てましたが、小学生には車体すら綺麗に組み上げられず、ましてマブチモーターで動かすまでに至らなかったような気がします。
そのED46を見たのは1962年10月、東京・晴海埠頭(展示場)で開催された「鉄道博覧会」会場。その後にED92と改番されますが、結局動いている姿を見たことはありませんでした。
鉄道博物館では、ガラスケースに入った模型が展示されています。「ピンク」がこんな色味だったのかわかりませんが、SNCF(フランス国鉄)の機関車もどきのデザインにはなんとなく魅かれるものがあります。このデザインのままで量産して欲しかったです。
「夢の超特急」と言われた東海道新幹線
東京オリンピック開催の1964年、OER3001氏は中学生でした。華々しく開業した東海道新幹線でしたが、好きだった151系の特急電車を東海道線からしめ出したので、新幹線はあまり好きになれませんでした。それでも時速200キロというのには憧れていたことは事実でした。
開業セレモニー風の展示がなされていて、懐かしく思います。
東京オリンピックは「体育の日」となった10月10日からでしたが、新幹線の開業は10月1日。まさに日本全土が、新しい時代になった感じでした。
今では信じられませんが「サボ」が使われていたのです。そして「超特急・ひかり」と掲示されています。でも東京~新大阪515㎞の所要時間は当初4時間。
在来線車両に比べて大きくなった車体なので、3+2人の座席配置。パタンパタンと背もたれをひっくり返す転換式。正直言って3時間、4時間は今から思えば辛い座席でした。
実車展示に加えて、展示模型も2種あったのですね。上は車両メーカーが交通博物館に寄贈したものだとかで、先頭車両に加えて中間車のカットボディが。1/15サイズだったか、かなり大きな模型です。
加えて下は、 1/20のもの。製作はやはり河合製作所だったようです。
前の車両メーカー寄贈の模型とは向きが違いますね。パンタグラフが付いています。
できた当時、好きになれなかった新幹線でしたが、今や新幹線は高速鉄道のブランドに。我が国独自の技術で、国際競争に勝って欲しいものです。
湘南電車や横須賀線以外はぶどう色と言われるいわゆるチョコレート色の電車が幅を利かせていた時代、オレンジ1色の101系、こだま型特急電車151系や東海型153系と、華やかな塗装の新型車両が登場してくるのを、わくわくして見ていました。
そんな中、全身銀色に輝くステンレス車両の登場は、新しい時代が来たという強力なメッセージでした。
153系の中間に連結された銀色に輝くサロ153-900番台に出会えた時は感激でした。
気動車にもキハ35-900番台としてステンレス車体が登場したのですが、この実物に出会えた時は既に、輝きを失っていた時だったのが残念です。
それにしてもこれらの展示模型、コルゲートの表現をどうしたのか、製作の河合さんに伺いたかったですね~。
トリビア:C57135号機にはC57141号機のものが使われている!?
ヒストリーゾーン中央のターンテーブルに堂々とした姿で鎮座する貴婦人ことC57135号機。12時と15時には、ターンテーブルの回転と汽笛吹鳴の実演があります。
C57135号機は、室蘭本線でのさよなら運転が有名で、山口百恵さんが乗ったことも良く知られていますが、実は141号機だっと言う事実を知っている方は少ない筈です。
・・・な~んて書いたら大袈裟ですが、先輪にある刻印が気になります。
どうです! C57141とはっきり刻印されています。同時に、それより大きいけれども少し弱い刻印でC57135と。
検査で部品をやりくりしたり交換することは良くあることですが、いつから141号機のものを使っているのでしょうか? また、141号機の先輪はどうなったのでしょうか?
OER3001氏は蒸気機関車に詳しくないので、こんなことを発見すると嬉しくなってしまいます。
久しぶりに鉄道博物館に行きました。
が、、、鉄道模型製作を趣味とするOER3001氏としての目的は、企画展「模型でたどる鉄道史」を見ることにありました。
開場は」2階スペシャルギャラリーです。万世橋にあった交通博物館の時代から集められてきた数々の模型が紹介されています。
蒸気機関車、電気機関車、客車・貨車、電車、気動車、新幹線、雪かき車など、グループ別に展示されているのですが、中でも一番OER3001氏の目が輝いたのが
小田急3100形NSE車。実車が登場した直後に小田急電鉄が交通博物館に寄贈したもので、1階奥の通路に展示されていたものです。
・・・あれ? 下の画像はOER3001氏の手作り作品。1/80の16番ゲージで、上の展示模型よりはるかに小さいものですが、こうして写真にしてしまうと同じように見えます。
そしてOER3001氏の手作り16番ゲージがこれ。
なんて言ったら、展示模型を製作した職人さんに失礼ですね。
6月になりました。
1月に、「決して毎日書き込みなど肩ひじ張らず、きままに・・・」と宣言して始めたこのブログですが、4月、5月は何と! 結果的に毎日書き込んでしまいました。
お陰様で来訪者も増加傾向にあり、毎日ご覧頂いている方もいらっしゃるようで、とても嬉しく思います。ご覧頂いている方々にお礼申し上げます。
と言うわけで迎えた水無月の初日、今日は「鉄道博物館」に行きます。久しぶりの訪問となる本日は、「模型でたどる鉄道史~1号機関車から"スーパーこまち"まで~」を主目的とします。
小学生の時代から鉄道模型製作を続けてきたOER3001氏としては、万世橋にあった交通博物館で何回も見た模型。久しぶりにじっくり見て来たいと思います。
この画像、「交通博物館」跡に建てられた20階建ての「JR神田万世橋ビル」屋上からの眺めです。屋上はフェンスではなく、ガラスで囲われ、そのガラスに顔を付けて下界をみることができます。ガラス越しなので見づらい部分があることはご了承ください。
上方が御茶ノ水、ちょうど中央線東京行233系がやって来ました。旧万世橋駅のプラットホームは、まもなくガーデンテラスとして解放されることになっているので楽しみです。
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