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当車両の最大の見せ場、下回りです。
台車は実車とはイメージが大きく異なるDT16を使用していますが、これには深い理由があります。
この台車は、OER3001氏が小学生の頃、1台づつ買って大切に大切に保管してあったカツミ製のダイキャスト製品です。 1960年代には、台車は1両分ではなく、1台車単位で販売されていましたので、毎月のお小遣いで少しづづ買うことができました。
高校を卒業し、出会った鉄道趣味界の大御所・AKBならぬABH氏。 さまざまな面で多々ご指導いただくこととなりましたが、残念ながら既に他界されてしまいました。
そのABH氏はTDKという通称の「私鉄経営」(模型鉄道運営)をされ、TDK方式の駆動装置を考案、広めて来られました。 そのABHに、いつかはOER3001氏も0番を、との夢から、上記の台車を、他の手持ち台車と共に、TDK方式に改造してもらっていました。
プラスチック消しゴムから切り出したブロックを挟んで、横向きに取り付けています。
モーターからシリコンジョイント(以前はゴムでしたが劣化のためシリコンに交換)で台車に伝えます。
センターピン部分で自在継手を介してクラウンギアで駆動軸に至る構造です。「TDK乗り越しカルダン」と名付けられた方式です。 ギア比も低いのでかなりのスピードも出せる優れものです。
床下中央部には箱、そこに4個のスライドスイッチが取り付けられています。 ①1エンド側方向標識灯類、②2エンド側方向標識灯類、③室内灯のon-offに加え、④はスピーカー。
そう、この箱状の床下機器は、スピーカーボックスでもあるのです。 天賞堂のEL-1を使用して、タイフォンやブレーキ音を発せることができます。 勿論お遊びでロマンスカーの電子音も。
たった1両ですが、思い出の詰まった手作りの電車。 広~い線路で思いっきり走らせたくなりました。 関東合運の時、0番のクラブにお邪魔させて頂きましょうか。
屋根上の部品も手作りせざるを得ません。 ベンチレーターはいわゆる湘南型と言われるタイプですが、桧材にペーパー片で作りました。
ランボードは、イラストボードと呼ばれる厚紙から切り出し、同じ材料から作った足を付けています。
パンタグラフは、ベースとなるものを活用しました。 遠い昔に入手してあったカツミ製品のPS16。 この台枠部分をPT42同様のアングル材に変更しています。
今なら、ちょうど良いサイズの電球色LEDもありますが、この模型製作時点では米粒球を使わざるを得ませんでした。
ケース後方に電球尻部を出したくなかったため、輪切りした真鍮パイプの下方から縦に電球を入れています。 レンズはアクリル棒から整形しました。
OER3001氏が作りなれている1/80スケールの16番ゲージではない、1/45スケールの0番ゲージ。 ほぼ倍のサイズだけに、今までできなかったことを試みたくなりました。
始めに運転台。 16番ゲージのように、パーツなどありませんので作るしかない。
先ずはマスコンとブレーキ弁。
乗務員室扉から覗いてみました。
正面から。
マスコンの黒い頭はビーズ。 それを適当な長さに切った1㎜角真鍮材に乗せ、桧材から作った本体に乗せて表現。
ブレーキ弁は、本体は真鍮パイプの組み合わせ。 そこに真鍮線材でハンドルを。 こうして撮影してみると、ハンドルをテーパー状に加工しなかったことが目立ちますね。 次回製作ではドリルレース加工が必要と反省材料が。
そもそも、鉄道模型の世界に入り込んだ小学生の頃、今から50数年前、世間は交流3線式のOゲージが主流でした。少なくとも小学生が所有する「おもちゃ」ではない「電気機関車」と言われるものは、交流3線式のOゲージを指していました。
所謂「ガラレール」と言われたブリキを曲げてレール状にし、ブリキの枕木に並べられた3本レールの上を、EF58イメージで作られたEB58などが、憧れの的でした。
当時の模型車両は今でも大切に保管していますので、いつかご紹介することにしたく思いますが・・・
大人になってから、OER3001氏が製作した唯一の直流2線式0番ゲージの模型、それがここにご紹介するチョコレート色の電車です。
車両番号は「1611」とありますが、小田急1600形をモデルにしています。
実車の1600形は両運転台で10両が作られ、後年、クハ1650形との2両編成を組むようになり、車体更新工事で片運転台になりましたが、このモデルでは、両運転台のまま、アルミサッシの姿にしました。
そこで、実車には無い11両目の「1611」と命名。ペーパー車体ですが、16番ゲージより遥かに大きいだけに、1/80サイズとは違う製作法を取り入れて完成させた次第です。
ヘッドマーク「特急はこね」は、復刻発売されたキーホルダーを撮影したものです。この作品製作当時は、今のようなパソコンとプリンターの時代ではなかったので、フィルムカメラで撮影。プリントしてちょうど良いサイズになるような距離で撮影するという、難儀を経ての成果です。
車内にシートを並べたのは当然ですが、運転席もなかなか気に入っています。新宿方の1705です。マスコン、制動弁ともハンドルに色差し、メーターも白く塗ってあります。そして運転席座席も付けました。 きっと、この仕切りの後ろから、ガラスに顔付けて前方注視した子供たちも多かったことと思います。
中間のサハ1750、中央部には本格的な喫茶カウンターが設けられ、まだ普及途上だった紅茶のシートサービスが行われました。
カウンターは薄茶色だったようで、中央に小さなショウウインドウがありました。背面の窓はシェードが下されています。
そして車体外部には、神奈川県花の百合をデザインしたエンブレムが付けられていました。
OER3001氏は、遊び心から床下にスピーカーを付けました。
台車には比較的大きな銅板で、集電効率を上げるためのブラシを付けています。
このスピーカーから、1700形独特のダブルホーンの音色を発することも可能ですが、羽目を外してSE車のミュージックホーンを流すことも可能です。
1910形の後に登場したのに、形式番号が後戻りしているのは何故? という疑問を抱く人は少なくないと思います。
1900形、1910形が登場した時はまだ、東京急行の時代。今の京王井の頭線に投入した新車に1700を。1800は国鉄63形電車の割り当てに使用したので1900に。
そして1948(昭和23)年6月1日から東京急行が再編され、新しい小田急電鉄の誕生と共に、井の頭線に割り当てられて飛び番号となった1700を、この新製特急車両に割り当てたという訳。
全長17メートル級のデハ1700形に挟まれたサハ1750形は20メートル級と、全長の異なる編成です。 それでも屋根上は1910形とは異なり、薄い湘南型タイプのベンチレーターが並ぶ、揃ったものです。
パンタグラフはカワイモデル製PS16をベースに、台枠を前後方向向き碍子の形状に改造、上下枠のタスキを張り替えて住友タイプとしました。
台車は日光モデル製のゲルリッツ型、本来は阪急用のものの制動筒を取り付けずに小田急のFS108に似せました。
トトロの駅がある小湊鉄道は、都心から比較的近いながらもローカル線そのものです。
ある時、五井の車庫で、ディーゼルカー運転体験教室に参加。講習を受けたのち、構内の100メートル程を2回、運転させてもらったことがあります。
小湊鉄道の現有車両は全てキハ200形。 14両が在籍していますが、その時運転できたのは204。
早速、その模型を製作することにしました。 同時に214も。 204はベンチレーターが他車と番うものが付いている異端児。 214は後期のユニットサッシになったバージョンです。
車体はいつものようにアイボリー紙。 204(右)と214(左)とでは尾灯形状も異なっています。
204(左)は、片側の肩にテーパーが付いた形状のベンチレーターを使用しています。
千葉県夷隅郡大多喜町に、この駅はある。
五井を起点とする小湊鉄道の終端だが、なんとこの駅以外は全て市原市内!
木彫りの立派な駅名表示板が掲げられています。 その駅舎(無人)に入ってみると・・・
な、なんという気遣い!
大きな氷が1個、待合室というか上の写真の入り口真ん中に置いてある。
失礼ながら、何人も乗り降りしない寂れた駅なのに、こうした心遣いが何とも嬉しい。炎天下から駅舎に入って得られる涼、けれど心は温まる。
こちら側は小湊鉄道。線路が手前まで来て車止めに。
両社はここで行き止まりとなります。 なのに・・・ホームの駅名票をご覧ください。
奥が小湊鉄道のホーム、手前がいすみ鉄道のホームのもの。 デザインは両社で違いますが、両社とも「養老渓谷←上総中野→西畑」と表示しています。
「養老渓谷」駅は小湊鉄道、「西畑」駅はいすみ鉄道。 それぞれ自社の終端駅である「上総中野」ですが、駅名票は中間駅です。
それならいっそ、直通運転したら如何でしょうかね? いすみ鉄道ホームの奥の側線、1本は小湊鉄道の線路と繋がっているのですから。
本日は終戦記念日。平和国家を目指して日本国が始まった日であります。
憲法改正を主張する政治家が気になりますが、先ずはこうして趣味を楽しめる生活の大切さを実感しています。 連合国に押し付けられた憲法だから自分たちで改正すべきと主張する政治家がいますが、現憲法が諸国が羨む理想の憲法と言う側面も事実だと思います。
平和国家を手に入れることを夢見て、国の命令で戦地に赴き落命を余儀なくされた数多くの先人に感謝し、ご冥福をお祈り申し上げます。
さて、その戦後復興に伴い観光需要に応えるように誕生した車両、1910形の最後は、新宿方先頭車の1911です。
これは海側(小田原に向かって左側面)。小田急線の線形は東西に走るため、実車の写真でも順光である海側からの撮影が多いです。 複線では手前に下り線を挟み、架線柱を避けての上り列車を撮影することができるからです。
こちらが山側から。 この角度の撮影では、右側に列車を遮る支障物が少ないことが条件になります。 架線柱は必需品ですから避けることはできません。
サハ1960形を挟んだ3両編成の上り方向の全景。当時の経堂車庫でもなかなか撮影しづらかった筈ですが、そこは模型ならではです。
OER3001氏は1911+1961+1912の編成を製作、1998年5月に完成しています。これは小田原方の1912。
正面に掲げられた「特急」マークは、当時の写真を頼りにパソコンで描いたものです。この当時まだ、「はこね」や「あしがら」といった列車名は付けられていませんでした。
パンタグラフは、カワイモデル製PS16を元に加工、横型というより前後方向向き碍子のベースに改造し、タスキを掛け替えています。
台車はKS33E、日光モデル製品を使いました。
車内にはカツミ製品を用いて、クロスシートと扉横のロングシートを付けました。 正直なところ、当時の座席モケットの色は判りませんが、グリーンではなかったかと想定しています。
当ブログ「OER3001氏の優雅な生活」では、ここのところ箱根登山鉄道の話題が続きました。
気づけば小田原から先、箱根湯本まで標準軌1,435㎜の内側に狭軌1,067㎜のレールを敷設して3線化、小田急の特急電車を乗り入れるようになったのは、1948(昭和23)年8月のこと。 ちょうど65年前ということになります。
小田急は、クロスシートの特急車両、1910形を用意して望みました。
第2次世界大戦で荒廃した国土の復興を目指して、運輸省規格型として設計された1900形10両の内、4両を2扉セミクロスシート車として登場させてのが1910形です。
別に国鉄車両の台枠を流用して製造されたサハ1960形を挟んだ3両編成で、「特急」の運板を掲げて乗り入れました。
カワイモデル製 「ED14」
今からおよそ50年前、中学生の時に2歳年長の従兄から譲られました。組み立て済みキットを組み立て、ラッカーを自分で刷毛塗りしてあったものでした。
その後、窓桟を一部切り取ったり、塗装を剥がし、小田急の機関車のような塗装にして数量の貨車を牽かせて遊んでいたものです。
このたび、大幅な更新工事が完了し、装い新たに復帰となりました。
元々、かなりフリーにした形で、正面デッキは台車に付けるなどしてお座敷運転の小半径曲線の通過に対応していました。
モーターはL-5という5極縦型が1台搭載されています。
ベーカーカプラーからX2-Fに取り換えていたカプラーも、台車内側にケーディーカプラー用の取り付け座を設けました。 流石に今どき、ベーカーやX2-Fでは牽かせるものがありませんから。
車体色は当社のフリー機関車の標準色としているグリーン(湘南用)としました。 そして、パンタグラフは赤に。 ドイツ国鉄の真似です。
このパンタグラフ、PS14もどきのものですが、線ばねのフックで上昇されるタイプ。補強線の張り方を変更しています。
ヘッドライトはLEDへの変更も考えましたが、結局、本来の米粒球として、基本的には昭和30年代の香りのままで再生となりました。
今度、広いレイアウトでビュンビュン走らせてみたい! と言っても、ギア比は1:20なので飛ばしはしません。 数量の2軸貨車か、あるいはホキ800なんかも似合いそうではありませんか。
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