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仙台の銘菓、白松がモナカです。
先般の寺子屋運転会で、仙台からの知人から頂いたお土産です。
「仙台銘菓」ではなく「全国銘菓」の看板を掲げていることでも有名です。
「白松」は創業家のお名前だそうで、「白松さんの最中」と言うことらしい。
これは胡麻餡、上品でコクのある味わい。 家内と二人で美味しくいただきました。
8月17日掲載の「塗装完了」、8月19日掲載の「パーツ欠損」で取り上げました伊豆急1000系電車の製作。 その後、夏休みの小旅行や何やらの合間をぬって、完成を目指して細かい作業を進めています。
幌を付けました。
ワイパーも付けました。
ナンバーもエッチング抜き文字を1文字づつ拾って所定の場所に付けました。
左が伊東方のクハ1501、右が伊豆急下田方のクモハ1101。 下田方には幌が付きます。 この後、クハ1501にはジャンパー線を付けなければなりません。
四角い尾灯レンズは、赤いアクリル角材から削って作った、手間のかかった自作品です。
パンタグラフも手元在庫の古いフクシマ製PT42を乗せました。 実際とはタスキが異なるようですが、そもそもこの車両は手元にある100系の増結というポジショニングのため、部品は極力手持ち在庫の活用という方針です。
この形式、妻板のキャンバス止の形状が妙なのです。 屋根Rと合っていない、低屋根の形状ですが、どうしてこうしたのでしょうね?
ここまで辿り着くと嬉しくなりますが、まだ完成には程遠い。 電灯他の配線が残っています。 まあ、のんびり進めることにします。
シールドビーム前照灯を、真鍮板から削って作った台座に嵌めて、さてレンズを! と思ったところで、エコーモデル№1647のシールドビームに入っていたレンズの1枚が割れていて使い物になりません(涙)。
エコーモデルに訳を言って分配してもらうことはできるでしょうが、割れたパーツをつい、捨ててしまいました。
そこで勤めの帰り道、原宿の模型店に立ち寄ってレンズ(№2676)を調達。レンズ4ヶで200円、1枚50円と言うことになります。 一番左側に入れてやらなければなりません。
不完全なパーツを手にしてしまうと、残念ですが余計に手間を食う結果となってしまいます。
それにしても決して安く無い商品です。
№1647シールドビームは挽物クロームメッキパーツとレンズ、各2個入りで300円。
№2676ヘッドライトレンズは4個入りで300円。
挽物クロームメッキパーツとレンズが同額ということになるのですが、なんとなく解せません。
それにしてもこの模型、ペーパー自作でも顔に随分おカネがかかります。
ゆっくり進めていた、というより、塗料の調達もあって長く保留していた伊豆急1000系。
夏休みの休日、暑い暑い最中に一応の塗装を済ませました。
2.マスキングをして下半のハワイアンブルーを吹く。
3.再度のマスキングの後、シルバー部分を吹き、
4.最後に屋根の艶消しグレーを吹く。
という手順でした。
その間に並行して、
5.床下の艶消し黒
6.クーラー、ベンチレーターの艶ありグレー
を吹きました。
7.正面Hゴムの黒をプラ用エナメル塗料を烏口で書き、
8.戸袋窓Hゴムの灰色をプラ用エナメル塗料を烏口で書き、
9.サッシのシルバーを面相筆とプラ用エナメル塗料で。
と言う準で進め、窓セルを入れて、前照灯と方向幕を入れて、、、と言うところまで辿り着きました。
細かい作業がまだまだ続きますが、ここまで来ると安心です。
OER3001氏の小学校は渋谷区立。 6年生での修学旅行は、学校からどのように浅草へ向かったのか記憶がありませんが、とにかく浅草の曲がったプラットホームから、吊り掛け式2扉の貸切列車(モハ5320やクハ340あたりだったのかな?)に乗車、日光へ行きました。
日光での宿泊は国道119号線沿い。記憶をGoogleMAPで辿ると、大野屋旅館あたりと推測されます。
2階の大部屋から外を見て大興奮。 日光軌道線を電気機関車が貨車を牽いて行くではないですか!!
写真機など持てなかった小学生は、その光景をはっきり脳に記憶しました。
行きかう路面電車は、何とも妙な色の車両。 神橋の赤をまとっているようですが、淡緑色と合うとは思えませんでした。 が、その保存車両を東武博物館で目の当たりにすると愛着がわいてくるので不思議です。
200形連節車両、203号です。
連節部妻板にも、幅の狭い窓が設けられています。
連節台車もしっかり観察できますが、良いアングルでの撮影は極めて困難です。 台車に絡まった蔓を取り除いてあげたかったのですが・・・。
室内にも入ることができます。 この連節部が大きく回転して、神橋のカーブを行く光景、乗ってみたかった!
室内灯は通風口と一体になったグローブ形。 当時の標準的な仕様ですね。
東洋電機製マスコンと、制動弁しか無い簡素な運転台ですが、スマートな造形に気が配られています。 このあたり、同時代に製造された5700形とも共通するように思えます。
本日のタイトルは終戦記念日に相応しい?
私たちは今、平和な社会で生きられています。
OER3001氏は戦後世代で、戦争の悲劇は親から聴かされて育った世代。
そんな戦後世代が、久しぶりに銀座で再会、お互い生存との健康を確認しました。
その中で、ぬか屋さまがお持ちになった名機、50年前のものだそうです。
Canon・・・なんだったか忘れました。
フィルムの巻き上げはレバーではありません。 右のダイアルを回せば、当然ながら左の丸い部分も回転します。
フィルムを手で巻き上げて、こうやってぬか屋さまがモハメイドペイパーさまとぼっちぼっちさまを記念撮影。
最後には全員集合で記念撮影。 いやいや戦後世代とは言え、今年は終戦から70周年ですから、とりあえずみんな60代。
仲間との8月度例会、東武博物館の見学から始まりました。
1924(大正13)年に製造されたデハ1形(5)は、電車ファンとしては見とれてしまう車両です。
博物館に入ると目前に、蒸気機関車と並んで綺麗な姿を見せてくれます。
私鉄ながら当時としては大型の車体で、京王帝都は軌道だったから小さくて当然としても、小田急のモハ1に比しては確実に大きく感じます。
おそらく油敷きだった筈の床は、ニス塗りなのでしょうか、綺麗です。 グローブに収められた室内灯が良い雰囲気ですが、中身は白熱灯ではなくLEDなのかな?
ダブルルーフの明り取り窓にはダイヤガラスが使われています。 近いうちにダブルルーフの車両製作を計画している我が身にとっては大いに参考になりました。 つり革も正しく「皮」です。
Westinghouse製マスコンと、制動弁だけの質素な運転台に、一番目立つのは手ブレーキの大きなハンドル。 こんなスタイルが標準でしたね。
流石にこの車両の現役時代は知りませんが、古い車両からは何かと学ぶものが多いものです。
今回は少々乱暴な発言をさせて頂きますが・・・
鉄道模型メーカーには「事業者」としての責任感が希薄なメーカーが少なくないと思います。 「事業者」でありながら「趣味人」の延長線のようなメーカー。 すなわち、マーケットのニーズに応える社会的使命感が感じられない。
鉄道模型を趣味にしている人々は、大切なマーケット、市場でありながら、市場ニーズをどの程度把握しているのでしょうか。
例えば、パワートラック。 市場から消えてずいぶん経ちます。 メーカーのホームページで生産中止を謳ってはいません。 あくまでも製品として市場に供給しているように表現しています。 なのに・・・
博物館で見て、改めてパワートラックの流通を期待します。
近畿日本鉄道、小田急ファンでも憧れる存在でした。
小田急はSE車、近鉄は2階建てのビスタカー。 共に絵本や図鑑を飾る存在でしたから。
だが高度成長時代と言われる中、近鉄は特急を量産、どの路線でも乗れる存在になって行きます。 2階建てより使いやすい車両をということでしょうか。
ビスタカーが影薄れて来た頃、スナックカーなる12000系を登場させました。
ちょうどタニカワが真鍮バラキットを発売した頃、ペーパー自作を続けてきた我が身がはんだ付け習作として取り組んだのがこれです。
12000系は2丁パンタになった姿として1982年に製作、翌1983年に製作した12200系と合わせて4両を組んでみました。
両車ともモーターにはエンドウのパワートラックを初めて使ってみました。 すこぶる快調に走ってくれています。
室内には白いシートカバーの赤いシートが目立ちます。
自他ともに認める小田急ファンでありながら、線路の幅も異なる関西の私鉄車両にも好きな車種があるのです。
鳩のマークを掲げる京阪特急3000系。
ライバル阪急京都線の6300系と競っていた時代。落ち着いた大人のイメージとも言える阪急に対し、鮮やかな塗装で、急曲線をも疾走する姿が気に入っていました。
関西視察と称して乗り歩きに行ったのを機会に、ペーパー自作となりました。 1976年6月の完成。
エンドウのV19縦型モーターと14:2ウォームギアで、極めて速い走りを見せてくれます。
クーラーはポリエステル樹脂の流し込み成形品、パンタグラフもカツミPS16をベースにPT48スタイルに改造したものを付けていましたが、近年カツミPT48に交換しています。
写真では3両しか写っていませんが、6両分の罫書きをしつつ力切れて完成は3両のみ。
この走りを久しぶりに愉しんだら・・・増備したくなってきました。
HB車と呼ばれた1200~1400形の主電動機を用いて、2600形NHE車の大型車体で1966年に登場したのが初代4000形。 台車にはパイオニア形が採用されました。
模型は人類が月面着陸した時、徹夜で宇宙中継を見ながらの完成、1969年7月21日と記載されています。
白ボールの外板、ドアは真鍮プレス製品という車体に、日光モデル製の伊豆急用台車の軸受部を利用し、ワッシャを重ねてブレーキディスクを作り、ペーパー片で枕ばねやボルスターアンカーを作った台車。
全力注入して製作した当時の代表作品ですが今も健在。
登場時は3両編成での運用だったものの、やがて1800形との5両編成が現れるようになり、模型で用意したのは新塗装バージョン。 当然、白ボールによる自作です。
青ガエルとして親しまれた5000系ですが、このモデルの時代は「TOKYU」ではなく「東京急行」と呼ぶ方が似合います。
一世を風靡した憧れの車両ですから、小田急ファンのOER3001氏でさえ、製作した次第です。 丸みを帯びた車体は、幼稚園児の頃に絵に描いていた記憶があります。
そんな車両を製作することになったのは、タニカワからリーズナブルな価格でキットが発売されたから。 それと、東横線沿線に住む彼女と家庭を持ったから。
登場時から暫くは、大きな正面窓はHゴム支持ではなく、また床下はグレーで、軽快感がありました。
K.W氏の作品と並ぶと、運転会場でも存在感があります。 OER3001氏の作品には赤い「急行」運板を掲げました。
8月に入り、運転会たけなわ。
先ずは横浜野毛地区センターで。
青ガエルと呼ばれていた東急5000、友人のW氏の作品(奥)と並びました。
同じ谷川のキットから組んでいるのに、微妙な違いが。
手前は登場時に近い姿、奥は少し後の姿です。
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