今でもそうですが、半世紀前の「Tenshodo」ブランドは崇高なものでした。
中学生の身で銀座と言う都会に行くだけでも高嶺の花。 都電が行き交う街の中には‘異人さん’多分進駐軍の軍人さんやその家族も多く見られました。
晴海通りにある「Tenshodo」は2階建て。 1階は多分宝石店だったのでしょうが、中学生の身には記憶がありません。 ただ階段を上がると・・・、
HOゲージの大きなレイアウトがあり、アメリカ型の機関車が走っていました。 その前に展開される売り場のガラスケースには、とてもとても手がでない高価な製品が並んでいましたが、マツモト模型のペーパー製ダブルルーフ客車が車体だけで売られていたのが印象的です。 当然、台車などのパーツも揃っていました。
「Tenshodo」が日本型を発売するようになったのは確か1962(昭和37)年、DF50でした。 それ以前には何形式かの貨車は発売されていましたが、動力車としてはDF50が初。 当時5,000円以上の商品には物品税が掛けられていたこともあり、DF50は4,990円での発売でした。
東京オリンピック開催の1964(昭和39)年、10系軽量客車が発売され、そのパーツのいくつかも分売されました。 その中、TR-53、オシ17用のシュリーレン型台車を購入しています。

斯様な深絞りプラスチックにペーパー台紙のパッケージ。 1両分を求めると鋏で切り離してくれます。 オシ17を作るなら1両で充分なのに、3両分を買っています。

それは、当時シュリーレン台車としてはカツミから、近鉄ビスタカーのKD-26しか発売されておらず、それは空気ばね。 枕ばねがコイルのタイプはTR-53しかありませんでした。
3両分6台車を求めていたのは、小田急3000型SE車を製作した時に使う計画があったからです。 8車体連節では9台車、短縮改造された5車体SSE車では6台車、恐らく短縮されたSSE車を作ろうと思っていたみたいです。

結局、3000形SE車、SSE車は未だ着手しておらず、SE車の真鍮キットと必要な台車を購入してあるので、上記のTR-53は不用品となっていました。
勿体ないので使い道を考えていた所・・・、近々利用することになりそうです。 パッケージも貴重な記録として、ここにご紹介させて頂きました。
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