« 2020年5月 | トップページ | 2020年7月 »
カナダはアルバータ州エドモントンの続きを。
アルバータ州はアルバータ牛という牛肉が有名です。 そのステーキはまた格別だった思い出がありますが、それより記憶に残っているのが前回紹介した電車です。
この画像をアップするにあたり調べてみたら、この鉄道はOER3001氏が訪問する9年前に開業した新しいものでLRTでした。 この1988年時点では、南北方向を結ぶキャピタル線だけだったようですが、今では2路線あるようです。
この車両は勿論当時の新車ですが、2車体連節でSiemens–Duewag U2型というのだそうです。 今では第2世代に代っているのでしょうか。 記憶を整理してみると、「今日の一枚 No.47」の画像は都心部の地下駅セントラル、そしてここが2駅目の地上駅スタジアムということが判明しました。
1988年、3度目のニューヨーク出張の帰りは、思い切ってJFK国際空港まで地下鉄を利用してみることにしました。 ガイドブック等には、マンハッタンの駅からは飛行機のピクトグラムを掲げた電車に乗れば良いとあります。 それがこれ。 そしてここが終点のJFK。
なのですが、どこにもターミナルビルらしき建物や飛行機の姿は見えません。 広大な草原の中のローカル駅にしか思えません。 向こう側のホームに入って来たのは長い! 8両編成のようです。
駅名表示は「Howerd Beach - JFK」とあります。 実は空港ターミナルビルは数キロ先。 ここからバスに乗り換えでした。
因みに地下鉄JFKラインは治安が保たれているのだと。 各車両には警察官が乗って、車内警備していました。 その光景を見るだけで、カラダが凍るようでした。
今はもっと良くなっているのだろうか?
結局、ニューヨークにはこれまで4回行きましたが、この時が最後の地下鉄乗車となってしまいました。
ということで、駅の自動改札機にPASUMOをピッ!
向かった先は紫陽花を入れて電車を撮れる場所、ということで行き当たりばったり。 井の頭公園までの車窓を事前確認した後、浜田山で下りてみました。
行き交う電車は細部の違いはあれど、どれも同じ1000系。 お顔の色が違うことは素人にもわかります。
しかし肝心の紫陽花は、少々遅かったようです。
しかし折角なので、沿線を歩くことにして、ここは神田川の橋梁。
さらに明大前まで歩き、井の頭線の前身、東京山手急行電鉄が将来に備えて複々線分構築した遺構を見物。
左2線は、中野方面に向かう計画線だったらしい。
紫陽花も終わりに近づいていたし、ちょうど某氏からのメールで、普段は見られない電車が走ると言うので、場所替えすることにして、京王よみうりランドで待ちました。
ホームに付いた時には先客2人、後からさらに2人。 ホーム先端は避け、10メートル後方で構えました。 もう少し左を入れたかったのですが左に振ると撮影者が入ってしまうので諦めました。
近付いた位置でもう1枚。 若葉台工場での定期検査を終えた動物園線専用編成の回送でした。
見づらいヘッドマークですが「キッズパークたまどうとれいん」となっています。
梅雨空の下のウォーキングは、浜田山~明大前、そして京王よみうりランド、11,600歩となりました。 某氏の情報提供に感謝です。
1988年に3度目のアメリカ出張に恵まれたOER3001氏は、オフタイムには当然ながら鉄道を見に行きました。 とりわけサンフランシスコでは、BARTでバルボア公園に行けば、MUNI(San Francisco Municipal Railway、サンフランシスコ市営鉄道)の車庫があることを知っていたので、この時は車庫を目指しました。
MARTのホームから上がると、車庫の横に出ることができ、たくさんの車両が目に入ってきましたが・・・、期待していたボーイング社製造のスマートなLRVとはちがう車両も!!
事前情報も無かったので、立ち入り可能な範囲でバチバチカメラに収めたのが次の写真。 1両1両、どこの何かという知識を持たなかったのですが・・・、赤いのはイタリア? 黄色い方は?
Cedarさまから赤いのはドイツから、右のはSFの旧塗装ですよとご教示頂きました。
日本の車両も居るではないですか。 大阪の阪堺電車だあ! 「えびす町」だって。
これは・・・、ブラックプールでしょうか?
ではなく、サンフランシスコの PCCオリジナル塗装であると、やはりCedarさまからご教示を頂きました。
これはわかる。 広電ではないですか。 車体に広島電鉄株式会社って書いてありますよ。 しかしこの電車はもともとは神戸市電だと、モハメイドペーパーさまからご教示頂きました。
これは?
Cedarさまによれば、オーストラリアから来た電車だそうです。
セントルイスなのかな、PCCカーですよね。 これらが時折パレードで走るというのですから、まさに走る博物館です。
まだまだ居たようですが、長時間を過ごすこともできず、さっさと下の画像右奥を立ち回ってから退散しました。
振り返ればこの線路配置が何とも綺麗ではないですか。 Cedarさんが見たら燃えるかも知れません。 丁度検修庫からLRVが出て来ました。
1988年のサンフランシスコ、大感激の数十分でした。
因みに今では斯様な車両に更新されているようです。
Cedarさま、浅学の身に数々のご教示頂き恐縮です。 早速、本文を加筆修正させて頂きました。 ありがとうございます。
サンフランシスコと言えば、ケーブルカーとともに連想するのは当然BART(Bay Area Rapid Transit)。
地上部分での写真を撮りたくて、どこまで行ったのか、1983年の記憶は消えてしまっているのですが、前後の写真から想定すれば、バルボアパークかも知れません。 なんでこんなに寝ぼけた写真を撮っていたのか・・・涙。
その未来感溢れる独特なスタイルは、営団地下鉄6000系の試作車に大きな影響を与えています。
スタイルばかりに目が行ってしまうBARTですが、その軌間は広軌の1,676㎜、直流1,000Vの第三軌条で、80mph(約130km/h)というのに驚きます。
営団から東京メトロに変わった千代田線も、6000系から16000系に世代交代しましたが、BARTも斯様な車両に世代交代が進んでいるようです。
(Wikipediaより)
車体単独で集電ができない連節車では、室内灯を装備するための電気配線には頭を使います。
8両編成のSE車では編成で台車は9台なので、集電:絶縁車輪の数が揃いません。 全18軸で10:8になってしまします。 そこで、集電性を高めるために行ったのが、全軸に集電ブラシを付けること。 そして全車引き通しとすることです。
相手車体に付く台車上に載りかかる側の床上左右に、銅張基板から切り出した斯様なパーツを接着しました。
台車側には予め車体側の銅張基板に接触させるベロを付けておきます。
非台車側と台車側はそれぞれ耐熱電子ワイヤーを床下を通して結線し、ジャンパとなるピンプラグを繋ぎます。
台車側も同様ですが、こちら側は台車の集電ブラシからの線が接続されています。
ピンプラグは上から被せた車体の貫通口を利用して、隣の車両と接続します。
車体の裏に、銅張基板から切り出した電気接点が接着されています。
室内灯はLED裸光のままでは明るすぎるので、防水カバーを薄く切り取ったものでカバーしましたが、より柔らかな光とするため、間にトレーシングペーパーを挟むこととしました。
と、ここまで来て線路に乗せて試験した結果、IMONのラグ板 穴径φ2小に、32㎜長にカットした0.4φの銅線をハンダ付けして作った集電ブラシの効果無い(涙)。 原因は銅線が被覆された物だったのです。
そこであらためて、今度は0.3φの隣青銅線として作り直し。 所定の32㎜長にカットするための簡易治具は角材から製作しています。
泣く泣く同じ作業をもう一度。 思考錯誤が続きます。
先にサンフランシスコのMUNIを取り上げました。
しかしやっぱり日本人が思い浮かべるサンフランシスコの風景にはやっぱりコレでしょうね、ケーブルカー。 アルカトラズ島を背景に、急坂を登って来ました。
サンフランシスコには3系統の路線が有ったと思いますが、こちらはPowell & Hyde Sts.の路線。 運営はSan Francisco Municipal Raikway と車体に掛かれているように、ケーブルカーと言えど立派な鉄道なのですね。
もう一つの路線がこちら、少々車体大きいようです。 Van Ness Ave.,California & Market Streets とあります。もっと良く観察して来るべきでしたが、この2路線は何と、この交差点で交差しているのです。
ケーブルの交差ってどうなっているのでしょう? 謎が深まるばかりです。
たびたび取り上げていますが、SE車の製作に当たっては、OER3001氏としては新たな試みを導入しています。
室内灯に採用したのはこれ。1メートルで750円の防水タイプのテープLED、秋葉原の秋月電子で購入しました。 店頭には並べられておらず、店員言ってバックヤードから持って来てくれたものです。
パッケージを開封すると、昔の録音テープを思い出すリールにまかれています。
3個のチップLEDが1ユニットになっているので、これを防水カバーごと2ユニットで切断しました。 防水カバーから引き抜くと手前の姿になります。
一方、ブリッジダイオードと抵抗(680Ω)を基盤にセットしたパーツを用意します。
これに先のテープLEDを接続します。 基盤の右方向に見えるのは妻板に取り付ける電気接点です。
ここまで製作してテストした結果、コンデンサを付けることにしました。 コンデンサは1000μFとし、反対側エンドに接続しました。
これを各車に取り付けて行きますが、OER3001氏が室内灯を装備するのは久しぶりです。 エンドウやカツミのパネル型を使った時代から随分と進化したものです。
今回は、最近のお仕事の成果をご紹介させていただきます。 本日6月19日より、公開となりました。
3月14日に開業した山手線の新駅「高輪ゲートウェー」。 開業時に想定された混雑と、その後の新型コロナウイルスによる非常事態宣言発出から長く公開が控えられていた映像コンテンツです。
隈 研吾氏の設計による木のぬくもりをコンセプトに作られた2面4線のプラットホーム上に広がるテラス、その東側(画面左)、ちょうど車両基地が見下ろせる場所に設けられた横幅16メートル、高さ4メートルほどのディスプレーが設けられています。
近付いてみます。 今はまだ画面奥の改札口は閉鎖されているためか、広々としたウッドデッキのような空間です。
逆光で写りにくいですが、「高輪の軌跡をたどる旅 そしてゲートウェーへ」という約6分間の映像コンテンツが、毎日9時から21時まで、間に何種類かの幕間映像を挟みながら、繰り返し上映されることになっています。
江戸時代はほぼ海岸だった高輪に築堤を築き、鉄道を開通させる。
やがてそこは車両基地として発展し・・・
2020年、高輪ゲートウェー駅が開業、世界に繋がる都市が生まれる、というようなシナリオです。
OER3001氏はこの映像コンテンツ制作にあたり、監修者の一人としてかかわらせて頂きました。 是非一度、駅見学を兼ねて映像を楽しまれることをお勧めします。
ここの所アメリカ(USA)の鉄道写真が続いていますが、アメリカと言えばN.Y(ニューヨーク)を避けては通れません。
しかし当時のN.Yは、なかなか治安にも不安のある場所が少なくなく、特に地下鉄には一人で乗るなとか、夜は避けろなどとガイドされていたこともあり、スリルのあるものでした。
なかなかスマートな車両が導入されるようになっていたのですが、それもこの始末。 薄暗いプラットホームにこれが入って来るのですからスリリングです。
思い切って地下道を見ると、流石にN.Yのインフラは凄い! 複々線です。
でもね、車内はこのようなもの。 やっぱり怖いですよね、女性乗っていないのですから。
人種差別反対と世界中で運動が起こっていますが、OER3001氏も人種差別は反対です。 と言いながら、異国の地の荒れた環境で見慣れない人に遭遇すると、緊張してしまうのはどうしようもありません。 せめて清潔な環境が維持されていれば、安全が担保されているように思えるのですが。
サンフランシスコと言えば先ずケーブルカー、その次にバートを連想するのは、日本の鉄道ファンの殆どではないでしょうか。 OER3001氏もそうでしたが・・・。
ところが、ケーブルカーでもなく、バートでもない、LRTに出会って感激したものです。 バートに乗ろうとメインストリートの地下に下りると何と、最大3編成(6車体)連結したLRTが地下空間に滑り込んで来ました。
これは乗らねば話になるまいと、気の向くままに乗ってみました。 先ずはバートで目指した場所はバルボアパーク。掘割状の駅から地上に上がるとなんと、LRTの電車基地があるではないですか!
電車基地で得た刺激はまた別の機会にするとして、先ずはこの一枚を。
昼間の予定を終え、夕食会までの短い時間、西日が沈もうとしているところでした。 素早く何枚かの撮影を終え、MUNIと言うらしいこのLRTで、急いで夕食会場に戻りました。
試行錯誤で進めている配線作業は、難関の1両(車体)を終えました。 これでさらに検討しつつ、残る7両(車体)に取り掛かります。
先頭車両はMPギアの動力車なので模型的にはボギー車同様の2台車ですが、中間車は原則として1台車となります。 その1台車には左右とも集電ブラシ(銅丸線)を装備しました。
マクラバリに付けた集電ブラシから伸びる電線は、車内の端子に接続。 その端子から反対妻面側の端子と結線しています。
台車側端子からピンプラグのメスが伸びています。 同時にこの端子から情報に向けた銅板が、妻板に設けられた端子に接触し、室内灯他の電源となります。
反対妻面からはピンプラグのオスが伸びています。
こちらの貫通路奥にはスピーカーが斜め上を向けてセットされました。
横梁を持つ車体構造のため、車体前後を結ぶ電線は、車内を通すわけには行かず、横梁を避けるために床板と床下器具取り付け板の間を通しています。
またこの床板の室内側には音源ユニットが搭載されています。
取りあえずこれでテストした結果、7号車となるこの車体は、室内灯もミュージックホーンも、予期した通りになりました。 同様の工作を2号車に施すことにしましょう。 室内座席の取り付けはその後で考えましょう。
鋭意製作中のSE車、いろいろ画策しているので全てが試行錯誤。 進み方はまさに牛歩です。
難関のひとつは2号車と7号車。これが決まれば3~6号車はどうということなく進められます。 左方の妻板近くにスピーカーをセットすることにしました。 この画像では解りにくいですが、音響効果を上げるためにスピーカーボックスを作りました。
床板中央に仮置きしているのが音源モジュール。 その取り付け位置、床と車体の電気接点の検討、前後車両との電気的接続、室内灯取り付け、インテリアの取り付けなどを解決する必要があります。
ほぼ全てがオリジナル設計、製作となります。 そのうちまずはこれ↓。
音源モジュールを取り付けるに当たり製作したスリーブ。 外径3φのプラパイプを2㎜に切断したものを8個用意しました。 こんなモノでも同じ長さに揃えて切断するというのは結構難儀ですが、サーキュラソーが活躍してくれました。
前述のスピーカーですが、2号車と7号車のそれぞれに搭載します。 ミュージックホーンの音色は進行方向のスピーカーから鳴らせる計画です。 これが完成したら、ミュージックホーン鳴らす名鉄を製作した某氏にも負けないかと・・・、今から楽しみです。
Philadelphiaで東急7000系に出会う!
前回記しましたがフィラデルフィアは東急車輛がステンレス製車両の製造にあたりライセンス契約を締結したバッド社の本拠地です。 流石にそこで活躍していた通勤車両は7000系の兄貴でした。 あまりの感激に「今日の一枚」にはおまけ三枚です。
外観を地上で撮れる場所を知らず、また僅かな時間での電車見物なので、やむを得ず駅に停車した姿を。 屋根Rはほぼ同じようです。 ベンチレーターもふた周り位大きいですが同じ構造です。
側窓は開かない固定窓ですが、腰部のコルゲート、側扉枠も同じ香がします。 幕板が浅いですね。
車内では天井にファンデリアが。 ファンデリアは三菱電機の商標ですが、まさか三菱製ではないのでしょうね。 三菱のライセンス元メーカー製だったのでしょうか、未確認です。
何処の駅から何処へ向かったのか、既に記憶も記録も消えているのですが、都心の僅か1駅だけ、試乗しただけでこの体験は終わりました。 1984年秋の思い出です。
今では当たり前のステンレス製車両、我が国では東急車両製造が約60年前、アメリカ・バッド社の技術ライセンスで製造したのが始まりです。 そのバッド社がフィラデルフィアにある企業であることを、東急7000系や京王井の頭線3000系の車内プレートで、小学生の時から知っていました。
そのフィラデルフィアに行くことができたのは1983年と1984年。 都心の商業施設を訪れた際、地下のMarket Eastという駅が望める空間がありました。 ガラスへの写り込みに苦心しつつ撮ったのがこれ。
架線集電でワンアームパンタを載せたステンレス車体の、全長はかなり長そうで20メートル以上あるように見えます。 屋根上はクーラー? いや、主抵抗器かも知れません。
事前情報無く、思いがけずに出会えた光景ながら、流石にフィラデルフィア。 コルゲートが施されたステンレス車体の電車でした。
初めての海外出張は1983年10月、シカゴから始まりました。 同時に初めてのアメリカ、シカゴはいろいろないもで緊張の連続でした。
なによりフリータイムで乗ってみたかったのがこれ、ループと呼ばれる高架鉄道でしたが、利用客は黒人が大半で、視線を向けられるとどうも怖くて身構えてしまいます。 とある繁華街の駅で降りて跨線橋から。 暗い写真で失敗ですがご勘弁を。
全長15mも無さそうな小型車両の4両編成。 交差点上の高架橋も、半径30メートルも無さそうな急曲線でくねくね曲がります。 魅力的なスマートなデザインの当時の最新車両2600シリーズは大いに気に入ったものです。
確か現地の書店で「Destination LOOP」という書籍を見つけ、買って来たはずなのですが何処へお隠れになったのか・・・、見つかりません(涙)。 これをきっかけに屋内捜索です。
出掛けざるを得ない状態になって、有要至急の外出となりました。
登戸を発車した上り快速急行は軽やかに加速して多摩川を渡り、和泉多摩川、狛江を通過、だったのですが・・・、制動がかかり、喜多見で停車してしまいました。 玉川学園前駅~町田駅間で架線に支障物とかで、新百合ヶ丘~町田間で運転見合わせと。 影響を受けつつ、13分遅れで新宿に到着。 乗って来た急行含め、折り返し急行の行先は全て向ケ丘遊園、なんか見事です。
因みに地下ホームからの各駅停車は新百合ヶ丘まで運転するようです。
特急は全て運転取りやめ。 成城学園前で、乗客を降ろして室内灯を消したGSEが停車していたけれど、その後に出る筈だったEXEは斯様な状況でした。
で、本来の目的はこれでした。 僅かこれだけですが、高度コードの買い物、外径φ0.7の耐熱電子ワイヤーでした。 赤がどうしても欲しく、一緒に黒も買って来ました。
買い物の後は、メトロフリーきっぷを最大限利用して築地で下車、ちょっと話題の現場を見て来ました。 ここ、興和日東ビルです
入口向こうに2人たむろしていますが、他には誰も居ないので、入り口に入ってみました。 ノーセキュリティで出入り自由です。
2階が話題の現場です。 一般社団法人サービスデザイン推進協議会!
階段を上がってみようとしたのですが・・・、何人かの声が聞こえたので止めて、これに乗りました。
2駅乗って下車。 老舗の工事現場の状況を確認します。 地上12階/地下1階のビルは2021年9月末日完工予定だそうです。
勿論工事現場確認の後は仮店舗を視察、特に買うものはありませんでした。
そして帰途に就くのですが、小田急のダイヤはまだ特急は運休。 こんな状況下、思わず飛び乗ったのは斯様な床面の真新しい車両。
運転室は広々しています。 室内から見るフロントウインドウはJR・E233と同じような感じですが、運転台がE233より低いのか、前方が見やすいところがイイ。
新百合ヶ丘で降りて1枚。
走り去るバックも1枚。 このテールライト、なかなか良いと思いますが、どうやって模型化するか悩むところです。
ということで、梅雨入り前の良い天気の下、都心への買い物と小散歩を楽しめました。
中学生になって、初めて買ってもらったカメラはハーフサイズのCanon Demiというもの。 嬉しくて電車撮りたくて向かった先は、代々木上原~東北沢間の井の頭通り踏切。 その横の空き地に自転車を止め、ホッパー線の築堤に上がって。 そこで撮った内の一枚がこれ。 今は代々木上原駅構内となっている場所です。
ハーフサイズをご存知でない若い方のために一言添えましょう。 フィルム、現像、プリントとその度におカネがかかる写真を、安価に楽しめるよう、35㎜フィルムを縦に2分し、12枚撮りフィルムで24枚の撮影ができるようにしたもの。 そのため正位にカメラを構えるとタテ位置の写真となりました。
ピントは無限大に合わせ、オートシャッターを切っているので、シャッタースピードは1/125程度だったのでしょうか、当然流れてしまいます。
それでも床置冷房改造後とは言え、ほぼ原形のSE車3000形が、ミュージックホーンを鳴らして勾配を駆け上がって来ました。中学生がこんなところに入り込んでいたら、今なら大問題になることでしょうが、当時は何の問題にもならない日常的なことでした。
現役時代の海外出張は、然程多くなかったものの、それでもアメリカには数回行くことができました。 その最初が1983年秋。 単身で結構好きなように飛び回ることができたことから、ニューヨークを滞在地としつつ、近隣都市へ日帰りした時があります。
ボストンバッグを抱えて発券窓口へ。
「トゥーボストン」って言ったら2枚出て来たので「ソーリー、フォーボストン」と言い直す。 今度は4枚出て来た(涙)。 困って考え込んでしまったあげく・・・
「え~と」と言いかけたら8枚!
なんてことは無かったけれど、シャトル便という航空機は搭乗券買わずにそのまま機内までダイレクトでした。 着座して扉を閉め滑走路に向かう機内で、客室乗務員がクレジットカード決済に回って来ます。 シャトル便には一応運行時間が決められていますが、満席になれば直ぐ発車(滑走路へ)、乗り遅れた人には2機目が用意されているので、まるで2両連結の飛行機の様でした。
画像はエアポート駅。 地下鉄と言っていたような気がしますが、かなりの地上部分を走行します。 見づらいとは思いますが、全車両妻板寄りにワンアームパンタを装備しています。 台車は外枠が無い、路面のPCCカーのようでした。
航空機とクルマ社会のアメリカですが、何処の都市に行っても治安上の不安を気にしながらも、できるだけ鉄道利用を心がけたものです。
5月連休後に気が緩んだと思われる輩のお陰で、新型コロナウイルスの脅威が再発。 不安な日々はこの先も当分続きます。
とにかく不要不急な外出を、みんなで自粛するしかないようですが、自粛している人を横目に、夜の街に繰り出す輩の気持ちは理解できない。ちょっと電車に乗るにも気遣いつつという状況故、なかなか遠距離外出は叶いませんね。
一連のフィルムデジタル化を終えて、あらためて画像を見ていると、その日のことが思い出されます。 今回は、ニューヨークからフィラデルフィアに一人アムトラックに乗って向った時の1コマから。
撮影も良くなかったうえにフィルム変色もあって、多少の色補正など試みてもこの程度。 お許しください。
ED75みたいな交流電機が丸い断面の客車を牽いて、東海岸を南下します。 速度は150㎞/hくらいは出していたのでしょうか。 最後部の貫通路窓から、遠ざかる景色を楽しんだものでした。
フィラデルフィアを降りて直ぐ、駅南方向に撮影場所を探して次列車を撮ったのがこれ。 残念ながらヨーロッパの長距離列車には魅かれるものが有ったけど、なぜかOER3001氏にとっては、アメリカの列車はイマイチでした。
すっきり晴れる日は当分なくなり、梅雨入り間近といった天気になりましたが、ほぼ塗装工程を終えて、雨天でもできる工程に進むこととなりました。
先ずは久しぶりに都心まで買い物。 デスク上のカッティングマットを新しいモノに交換しました。 そして、ちょっと高いなとは思っていましたが、これを買ってみました。
これに、現物合わせで採寸したマスキングテープを貼り、それをガイドにカッターで切り抜きます。
そしてフロントに裏から貼ります。 高いだけあって、良い感じになりました。
同時に購入して来たテープLEDをカットしてみました。 これを室内灯に使うことを考えている次第。 まだまだいろいろやることがあって大変です。
OER3001を名乗っている筆者にとって、小田急の3000形とは今のステンレス車体通勤車ではなく、紛れもない特急ロマンスカーです。
この日、1967(昭和42)年8月19日、SSEへの改造編成が登場したことから、これへの乗車と同時に、改造前のSE乗車を目的に、先ずはSEに乗って西へ向かいました。
多摩川を渡り、登戸駅通過。 向ケ丘遊園場内信号機に差し掛かろうとするとき、上りSE車とすれ違い。 列車名は「さがみ」でしょうか、スカートの穴が楕円ではなく円形の第4編成、3031~3038です。 SEからSEが撮れました!
低床式とも言える低い重心を下げた車体の運転席は、広々としたもので、運転士座席は床に固定されたものではなく、事務椅子ごとく前後左右移動可能なタイプでした。 正面両脇窓にはレースのカーテンが下げられていたのですね。
写真右の位置には当初、補助警報(オルゴール)用のエンドレステープレコーダーが設置されていましたが、この時は既にテープではなく電子音になっていた筈です。
外出自粛でのStay Homeで、過去に撮りだめたカラーポジのデジタル化を進めた成果ご紹介から発した当シリーズも、30回を超えるまで到達しました。
6月となった今回は、いつ来るか判らない列車を待って、ようやく仕留めたものから。
ここは貨物列車しか走らない路線。 OER3001氏が貨物列車のダイヤを知る筈がありません。 この日は満開のサクラを絡めた電車の撮影に。 京王相模原線・稲城駅西方をオーバークロスする武蔵野貨物線が気になっていたので、見下ろすことができるところまで登ってみたところは寺の敷地でした。
仏様に向って頭を下げたら・・・、なんとEF65牽くコンテナ列車がやって来たではありませんか。 流石に下を通過する京王線とのツーショットは無理でしたが。
最近のコメント