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2021年1月

2021年1月31日 (日)

想い出の光景:18

代々木上原の想い出を続けます。 1969(昭和44)年の3月はかなりの降雪に見舞われ、この地でも相当な雪景色となりました。 雪が止んだ夕暮れにカメラを持ち出して駆けつけたのは、代々木八幡との間にあった踏切でした。

代々木八幡に向かう4000形3連の各駅停車、最後尾車両の番号は4052なのか4062なのか判別できません。

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こちらは同じ踏切から撮った代々木上原駅を出た1700形の4連。 先頭車は1701と思われます。 貫通扉のHゴムだけが黒色に変更されています。

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この踏切、今は中に東急車輌千代田線を挟む高架4線の下を潜るようになりました。

ここでの撮影で“雪中撮影”に慣らし、翌週はここまでのフィルムを入れたままのミノルタSR-1を持って、東北・北海道への撮影旅行に向かったのでした。 高校を終え、大学入学式までの間は、人生で最も楽しかった長い春休みだったのでした。

2021年1月30日 (土)

想い出の光景:17

自宅から代々木上原駅までは7~8分だったので、ハーフサイズカメラ“Canon demi”でのフィルム消化も含めて、どうと言うことのない写真を撮っていたものです。

自宅は駅北側だったのですが、1966(昭和41)年6月のある日、駅南側の坂を下ってきたようです。 そう言えば“Canon demi”は、この坂中腹にあった“横井カメラ”で買って貰ったという記憶があります。 踏切で2209先頭の上り電車を撮っていました。 後年、左側の下りホームに、臨時改札口が設けられるのですがこの時はまだありません。

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1967(昭和42)年9月のこの日は、新宿方面に出掛けたのでしょう。 電車を待つ間に上りホームから撮っていました。 

ホーム先の踏切は、線路のカントのせいで山谷山谷という状態で、行き交うクルマは上下に大きく揺れたものです。 線路南側の三菱銀行、その奥の上杉ベッド、線路北のプリンセスベッドの建物が懐かしい。 そこでちょうど御殿場特準となるキハの回送が上って行くと、下り「あしがら」とすれ違いました。

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そしてSE車「あしがら」が目前を通過して行きました。

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ここが今、上下線間に千代田線が入るといおう大きな駅に変わっているのですが、当時は想像も出来ませんでした。

 

2021年1月29日 (金)

想い出の光景:16

代々木上原の思い出-1

経堂で生まれたOER3001氏でしたが、小学5年生からは代々木上原が地元駅となりました。 一連のフィルムをスキャンニングした中、最も古い記録がハーフサイズカメラ“Canon demi”で撮った1965(昭和40年)年1月に撮ったこれらでした。

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上りホームから撮った1900形、各駅停車相模大野行きです。

千代田線との接続駅となって、快速急行までが停車する駅ですが、この当時は各駅停車だけが停車する駅、いや荷物電車もありましたが小さな駅に過ぎませんでした。

プラットホーム上屋も17m車2両分ほどの短いもの。 2400形HE車の急行は知らぬ顔して通過して行きました。

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曲線区間に設けられたプラットホームなので、停車した電車はカントで大きく傾きます。 朝の満員上り電車では、尻押しがぎゅうぎゅう押し込むので、空気バネの車両はゆ~らゆ~らしていました。

 

2021年1月28日 (木)

今日の一枚 No.97

ここのところ度々アップしてるハーフサイズカメラ“Canon demi”で撮った一枚から。

時は1967(昭和42)年1月の113系、伊東駅構内と思われますが、正面には「伊東-伊豆急下田」のヘッドマークのような運板が。 伊豆急線内の列車として、国鉄車両が運用されていたようです。 先頭からTc-M'-M-Ts-M'-M-Tcと、1等車サロ111を入れた7両編成です。

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モノクロフィルムゆえ、塗色が判りませんが、スカ色だったのではないでしょうか。

開業から5年を経過した伊豆急でしたが、この頃は国鉄からの直通運転ばかりではなく、国鉄車両による自社線内運用も少なくなかったのでしょうか。

 

2021年1月27日 (水)

フランクフルトの路面電車

ニュルンベルグの路面電車を見た日、再び200㎞あまり列車に乗ってフランクフルトで一夜を過ごしました。 明けた7月17日の予定は強行軍、先ずはフランクフルトで“仕事”です。

重厚な建物のフランクフルト中央駅(Frankfurt Hbf)、ドイツらしい威厳を感じられます。

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中央駅周辺を散策して、路面電車にカメラを向けます。 これは宿泊したホテル前の道だったか、バナナが描かれた赤い電車が来ました。 形式は知りませんが、これぞデュワグ(Duewag)製の車両です。

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駅前の広場へは、同型のグリーンの広告電車がやって来ました。

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この当時の標準色は、何か小湊鐵道のように思えるこれ。デュワグカーが主力と言うか、デュワグ社は西ドイツ国内では8割近くのシェアを持っていたようですから当然です。

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この当時の最新型と思われるのがこの3車体連接車。

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このフランクフルトでは路面電車に乗る機会はありませんでした。 撮るだけ撮って、次の地に向かったのでした。

 

2021年1月26日 (火)

今日の一枚 No.96

製作再開のスイス風フリーの電車は登山電車風ですが・・・、1965(昭和40)年1月の箱根登山鉄道にはこんな電車もいました。 ハーフサイズカメラ“Canon demi”での撮影です。

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強羅駅の片隅、とは言えどプラットホームからよく見える場所に、いつもこうして止まっていたことを思い出します。

色褪せた感じの小豆色、ブリル21-E形台車の2軸車、屋根にはビューゲルが載ったかわいらしいスタイル。 ユ1形と称して、その昔は温泉地旅館への食材輸送を担っていたらしいが、撮影時は既に鉄道資材等の運搬に従事していましたが、1976(昭和51)年に廃車されてしまいました。

 

2021年1月25日 (月)

スイス風

やっぱり模型づくりが好き”で取り上げたスイスの香りたっぷりのフリー、放り出したままでも気になるのでつい、ちょこちょこと息抜き代わりに手を入れています。

40年以上放り出していたので、このコロナ禍による不要不急の外出自粛要請に従い、この車両のためにわざわざパーツを調達に出向くことはせず、ストック資材の有効活用とすることにしました。

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というわけで、実は車体裾の補強に使った5×3真鍮アングル材も端材をつなげて使用しています。 で、序でに床板も1.5㎜厚イラストボードの端材利用としました。 パワトラ直付けでは高さが高くなってしまうので一段凹ませますが、そこはイラストボード上に0.4㎜厚程度のアイボリー紙端材を、アングル間の床上面としてツライチになるよう貼り付けました。 パンタ台も同じイラストボードにしてしまいました。

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当時からSE車作るときのためにとストックしていた、シュリーレンのKD26台車(カツミ製ドロップ)を取り付けてみました。

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ここまで来るとどんどん進めたくなりますが、あくまで息抜きです。 折しも我家が大規模修繕工事中のため、ベランダ塗装場が閉鎖されていることもあり、またしばらく放り出しておこうと思っています。

 

 

2021年1月24日 (日)

ブルーリボン賞に輝いたLSE

1980年12月7日、東海道本線湯河原駅で待つこと数十分だったかと。 EF58 94牽引の甲種輸送列車で、OER3001氏は初のLSEとのご対面を果たしました。

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陽が傾く小田原駅、国鉄線と小田急線との接続線に停車しました。 構内で待機していたED1041とED1031の重連に牽引され、相模大野の工場へ搬送されました。

 

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何とも慌ただしく12月27日から営業デビューとなり、人気を博しました。

春から行われる鉄道友の会ブルーリボン賞選定の結果、見事受賞。 9月に新宿駅で授賞式が行われ、記念ヘッドマークを付けて運転されたのを代々木八幡駅で待ち受けました。

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その後暫く、正面に装飾されて運用に就いていました。 代々木上原駅で上りを待ち受けましたが、営団6000系も想い出となってしまいました。

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こちらは和泉多摩川、多摩川橋梁に差し掛かる手前の築堤で。 複々線化でここも線路レベルが高くなり、防護壁に覆われて取れなくなってしまいました。

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それから37年、2018年7月10日を持って定期運用から引退。 最後の下り定期列車の運転室には、新宿駅の式典で受けた花束がありました。

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上りの最終列車を狙うべく出掛けた場所は秦野。 願わくば富士山が顔を出してくれることを期待していたのですが叶わず。 運転室は、新宿駅のに加えて、箱根湯本駅での花束も加わっていました。

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今春開館と報道されているロマンスカーミュージアムで、その勇姿に接することが出来ることを楽しみに待つことにしましょうか。

 

 

2021年1月23日 (土)

夢見ていたもう1両

小学4年生で初めて全自作のOゲージ小田急電車を完成させた時、同様の企図でもう1両夢見ていた証拠も取ってありました。

モーターは高いし、その電装技術も無いので、計画した車両は「クハ」に限り、湘南電車につなげて夢を膨らますのです。 その2作目はクハ1650形でした。

床板となる5㎜厚の板は難なく入手できた筈で、2枚購入。 1枚を屋根板とすべく両肩を削って弓形に近い断面にするのですが、小学生用工具のカンナでは苦労したようでガタガタです。

床板には復元バネが入った連結器胴受けと自動連結器、ボルスターとエアタンクが付けられ、黒く塗装されていました。

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屋根板ではかなり夢を膨らましていた様子が見られます。 パーツのブリキプレス製ベンチレーターを押し込み、ボイール紙のランボードが付いていますが、その間には学校の砂場から持ち帰った砂が撒かれています。 ヘッドライトは電線が切れた廃品をダミーとして接着していました。

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そしてその裏側、すなわち天井には例によって竹ひごとボール紙片から作られた蛍光灯、スピーカーを模したボタンが付けられ、実車に乗車したときの雰囲気を再現しようと夢見ていたのです。

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これらも単なるガラクタの一つなのは事実ですが、やっぱり捨てられずに半世紀、残してしまいました。 作者が著名人だったら、こんなものも博物館の一角に収まるのかも知れませんが、ただ手元に置いて、昔を偲ぶことしか出来そうにありません。

 

2021年1月22日 (金)

初めての自作車両

ず~っと捨てられないでいるものがあります。 小学4年生(1960年)の時に作った全自作の小田急電車です。 ちょっと捜し物をしていてこれに目が止まり、ついカメラに収めてしまいました。

この時代は、ガラレール3線式のOゲージで遊んでいて、湘南電車と東海型と称する2種類のフリー両運電車が、EB58やED58電機機関車などとともに宝物でした。

モーターは高いし、電装技術も無いので、その湘南電車につなげて走らせる目的で、所謂ボール紙に寸法を描き、ボンナイフで必死に窓抜きしたものでした。 おそらく夏休みの宿題にしたのかも知れません。

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実車で登場したばかりのHE車の刺激を受けていますが、勿論図面など当時は入手する手段も無く、完成品の湘南電車のサイズを参考にして、窓割りをHE車に仕立てています。

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2段上昇式側窓だったのですが、残念ながら中桟はその後に切れてしまいましたが、両開扉中央には当てゴムの意味なのか、たこ糸を付けています。

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床板を固定式、屋根板が外れるようにしていましたが、屋根板も屋根Rが削り出されたものなど無く、平板の中央部に角材を接着し、それをボール紙で覆うことで適度な屋根Rを出していると言うものなのですから、4年生にしては上等じゃないかと自負する次第。

その屋根板の裏、天井には竹ひごで蛍光灯、紙片で整風板、ボタンで扇風機をイメージしていました。 丸い部分に金属製の飾りボタンを淡緑色に塗って付け、扇風機に見立て、ていたのです。

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当初履いていたDT23形台車はその後、2線式にするために供出、貨車用台車に履き替えていますが、先頭連結器は立派な胴受けに収まっています。

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妻板側連結器は密着ではないですか。 これ凄く気に入っていたパーツです。

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訳のわからない床下機器が付いていますが、これらは多分、太子堂にあった模型屋さんで買ったような気がします。

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駅前商店街の文房具屋さんで買った島田塗料店の“マメラッカー”を、絵の具用の筆で塗ったたことも良い想い出です。 ラッカーパテとかラッカーサーフェーサーなどというものも、未だ知らないときでした。

ということで、取ってあったところで何の価値も無い代物ですが、OER3001氏がこの趣味に嵌まることになる第1号作品としての存在、どうしても廃棄できないでいる次第です。

 

2021年1月21日 (木)

ホームドア設置工事中

至る所で進むホームドアの設置。 個人的にはドアの無いホームの方が好きですが、時代的にそれは無理なのでしょうね。 JRや東京メトロ、東急などに比べて小田急のホームドア設置は遅いと思っていますが、これまでに新宿(5・6番ホーム)、代々木八幡、代々木上原(1・4番ホーム)、東北沢、下北沢、世田谷代田、梅ヶ丘の7駅に設置され稼働しています。

2022年度までに、1日の利用者数10万人以上の駅に設置するという計画で、直近では登戸駅で設置工事が始まりました。 1月19日、所用で出掛けた際に、その状況を見てきました。下りの1・2番ホームには、9日、16日の深夜にホームドアが輸送されて設置されました。

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左側、上り3・4番ホームは未設置、3月に設置されるようです。

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そこでふと、気になったことがあります。 多摩川からの風が冷たい登戸駅では、停車時間が長い列車は車内温度保持のために、1両当たり1カ所の扉を残して他の3扉を閉めます。 ホームドアもこれに対応するのでしょうか? 新型 QR コードによる「ホームドア自動開閉制御システム」の活用と発表していますが、きめ細やかな運用ができるとなると大いに楽しみです。

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完成まではドアが開いたままの光景が続きますが、その間は視覚障がい者などの転落防止に、警備員が監視しています。

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その登戸駅に、真冬の夕日を浴びてEXE-αが多摩川を渡ってきました。

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そして、開いたホームドア前を通過して行きました。

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それにしても、ホームドアというやつの融通性の無さって、なんとかならないものでしょうか。 20メートル4扉車のドア間隔に合わせたドア配置の優等列車専用車両の設計なんて、限界があると思うのですが。 高速化、乗り心地を追求すれば、例えば連接車に優位性がある筈ですが、台車間ホイルベースとホームドア対応という制約下では、到底無理があるのでは無いでしょうか。

 

 

2021年1月20日 (水)

平駅での想い出

前々回、日本初のディーゼル特急“はつかり”について触れた序でに、平駅での想い出をご紹介しましょう。

時は1966(昭和41)年3月と思われます。 前日から湯本温泉に一泊、湯本駅からこのED7539号機牽く下り普通列車に乗車したようです。

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なぜ平に行ったのか、その理由はわかりませんが、OER3001氏には素晴らしい時間となりました。 向こうのホームには交直両用の453系が停車していました。 別のコマからクモハ453-4と判読できました。

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サボは「ときわ」、この時は「準急」でした。

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手前のホームには下り普通列車の客車が停車中。 側線で待機していた仙台機関区所属のC6010号機が連結作業に入りました。

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停車していた客車にゆっくりと連結、発車に向けて投炭真っ只中なのでしょう、どんどん黒煙が上がってきました。

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東京生まれの少年にとって、ここには見慣れない鉄道の魅力が広がっていました。 この翌年、平機関区にC62を訪ねることになってしまうのでした。

 

 

2021年1月19日 (火)

やっぱり模型づくりが好き

やっぱり2回目の緊急事態宣言の方がインパクトはないですよね。だって昨年は初めてのことで恐怖ばかりでしたが、今回は“with コロナ”とか言って、行動制限は去年より緩いのですから仕方ありません。 とは言え多くの制約がある中、いろいろ趣味活動を続けていますが、またとんでもない仕掛かりに目が止まり、ちょっと手を出していまいました。 記憶が定かではありませんが、かれこれ40年は放り出していたようです。

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車体中央寄りの2カ所にベスティビュールを持ち、著しく大きな側窓2個の室が3室の両運転台。 運転台への出入りは車内からとなるスタイルはスイスの香りです。

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急に気が向いて車体下部を補強、アングルを取り付けて再度のプライマーがけの後で、台枠裾にR加工。 その後サフェーサーをプ~と吹いておきました。

先に完成させたSE車や長編成ものは先が遠く、単調な作業が限りなく続きますが、こうした1両ものは気軽です。 製作開始した当時はパワートラックも無く、大きな窓で動力をどう隠すか悩みましたが、今なら簡単に処理できそうです。 とは言えこの先どうなるか? 気ままに楽しむことにします。

 

 

2021年1月18日 (月)

日本初のディーゼル特急列車“はつかり”

特急“はつかり”、キハ81現役時代の走行を撮った唯一の写真がこれ。 中学卒業の春休みだったような記憶ですが、父親が親族の墓地を訪ねるのに同行、平駅に架かる跨線橋から、通り過ぎた上野行きをCanon-demiで撮っていました。

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こちらに向かって来る姿も撮っていましたが、この金網越しでは残念です。

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1966(昭和41)年当時の平駅、構内には煙が漂っていました。 常磐線はC60やC62、磐越東線のD60、入れ替えのC50などが元気だった時代です。

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その平駅の姿も撮ってありましたが、ハーフサイズフィルムのスキャニングで、上部が切れてしまいました。 おそらくボンネット型だったと推測されるバスの後ろ姿、トヨタのワゴン車が懐かしい。

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平市が近隣市町村との合併でいわき市となるのは、この年の10月1日。 平駅のいわき駅への駅名変更は1994年12月のことでした。

 

 

2021年1月17日 (日)

国鉄青梅線

初めて国鉄青梅線に乗ったのは中学生だった1964(昭和39)年だったような気がします。 同じフィルムには、青梅鉄道公園と一緒に、奥多摩湖が写っていました。 今になって考えれば、その両方を一日とは、結構な強行軍だったようです。

これは青梅駅での撮影と思われます。 背後のビルは現存する駅ビルですね。

(追記)後日、青梅駅前の元住人さまから貴重なコメントを頂きました。それによるとクモハ60116だったようです。詳細は下のコメント欄をご覧ください。

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プラットホーム先端へ移動して、留置線の電車も撮っていました。 中央は前のコマからクモハ11248と判断できますが、その他は不明です。

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小河内ダムを見学した帰りに撮っていた中に何と、氷川(現・奥多摩)駅で撮ったと思われるED27 13がありました。 南武鉄道が1928-29(昭和3-4)年に製造した1001形の1両だったのですね。 もっと良く見ておくべきでした。

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それにしてもこれら青梅線の記録写真を見て、半世紀後の今でもあまり風景が変わっていないことに感激します。 国鉄青梅線、いやJRになっても、青梅電鉄の香りが残っているような気がします。 

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「関東の駅100選」に選ばれている奥多摩駅(2007年7月撮影)が、「また来い!」と呼んでいるようです。  デジタル化を終えた古い写真を見ていると、いろいろなことが思い出されます。

 

2021年1月16日 (土)

つい無駄買い

友人がアップしたSNSが原因で、斯様なものを入手してしまいました。

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JR貨物のコンテナ、その正体は金属製小物入れ。 16番ゲージには大きすぎ、0番では小さすぎる中途半端なサイズですが、何よりもその値段に負けて6個入手してしまいました。 どう使うかは後で考えます。

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100円ショップ“Seria”で買ったと言う情報から探し回り、やっと入手できた1個100円、6個で税込み660円也。

このブログで心動かされた方は、100円ショップセリアの店舗検索してみてください。 全店取り扱いの商品では無さそうですから。

 

2021年1月15日 (金)

初めてのカメラで撮った京王電車

 昨年11月7日の「初めてのカメラと小田急電車」でご紹介した、画面サイズ24×24㎜ のボルタ判フィルムには、小田急電車と共にご近所の京王電車も撮影していました。 1962(昭和37)年夏の撮影です。

ただ、この時から既に小田急ファンとなっていたせいで、京王の撮影枚数は極端に少ない! このコマの前は晴海埠頭の展示場で開催された「鉄道博覧会」、このコマの後はお婆ちゃんという次第。

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撮影地は幡ヶ谷を発車した上りが急曲線を左に、その後直ぐに右に。 すると左(山側)に甲州街道となる所です。 この直ぐ後に代々木郵便局がありました。

こんな写真でも貴重な記録となるもので、写真の「新宿 東八王子」の方向板と「急行」運板もを掲げたデハ2723は、2年後に5070系新造のために電装品を供出しクハ2786に(1964年)に、さらにその5年後1969年にサハ2561となるのですから。 

 

 

2021年1月14日 (木)

都営地下鉄1号線

緊急事態宣言の中、不要不急ではない模型のパーツ調達という目的で渋谷へ、乗り換えの明大前で1コマ撮影です。 この場所を見ると、必ず東京山手急行(とうきょうやまのてきゅうこう)電鉄のことに思いを馳せます。

実現しなかった戦前の構想ですが、写真の構造物がその事実を今に伝えてくれているのです。

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目的を達成したら、感染予防のために即退散です。

ちょうど乗り合わせた電車は都営の車両。 この中吊り広告に目が止まりました。

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空いている車内を見渡せば、同じものが窓上にも。

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初めて東京都営の地下鉄が開業してから60年だそうです。 都営1号線として浅草橋-押上間が開業したのが1960(昭和35)年12月4日、当時の都知事・東 龍太郎 によるテープカットのポスターでした。

東 龍太郎という都知事、OER3001氏が小学生の時に描いた絵が「金賞」で、その賞状に「東京都知事 東 龍太郎」とあったことから強烈な記憶となっていましたが、高校時代の都知事選では美濃部亮吉を密かに応援、選挙権を得た最初の選挙では、投票用紙に「みのべ亮吉」と欠いたことも忘れられません。

因みに同じ車内には、大江戸線全線開業20周年のポスターもありました。

 

 

2021年1月13日 (水)

今日の一枚 No.95

1966(昭和41)年6月のようです。 新宿駅3番線に停車するクハ76 057を最後とする37M列車、甲府行を撮っていました。 勿論カメラはハーフサイズのCanon demiなのでアップに耐える画像ではありません。

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ただこれだけの写真なのですが・・・、クハの正面背後に見える“Keio”の文字は京王線新宿駅上の京王百貨店で、画面右上には、その後小田急百貨店の一部となる地下鉄ビルが建設中(帝都高速度交通営団建設)で、その間にはまだ小田急百貨店の本館となるビルの姿は見えません。

現在小田急百貨店となっているビルを含む一体が2029年、48階・高さ260メートルの高層ビルに生まれ変わるというニュースが発表され、今の西口開発の歴史を見て育った立場として年輪を感じます。 ちょうど先週から書店に並んだ雑誌に、興味深い記事が掲載されました。

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著者は建築家の乾純氏。 多面的に活躍されて居られる方のようですが、まさかあの方と同姓同名の方がいらしたとは驚愕です。

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その雑誌がこれ、なかなか読み応えある内容です。

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鉄道好きには駅は魅力的な場所ですが、「駅」の捉え方だけでも多くの視点があります。 その駅について、コロナ禍で利用が自粛されている折、知識を広め、深めてみるのも一興かと思います。

 

 

2021年1月12日 (火)

ニュルンベルグの路面電車

フランクフルトから列車で向かったニュルンベルグ、目的の一つは路面電車でした。 立派なニュルンベルグ中央駅(Nürnberg Hbf)正面に、その停留所が設けられているので迷うことはありません。

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この当時はまだ、シックなカラーリングの旧型車両が主力だったようです。 247とありますが、いったいどんな経歴の車両なのか、知識を持っていませんでした。

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カラーの違う、赤い新型車両も投入されていました。 364とありますが、こちらも知識無く残念! ただスマートで静かな車両でした。

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新旧の車両がひっきりなしに行き交って、退屈することはありません。

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旧型車両の後には新型車両が続行するといった状況です。

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バイエルン州第2の都市であるニュルンベルグは、中世からの伝統ある都市で、多くの見どころがある地であるのに、この時は路面電車と模型店だけが目的という悲しい?旅でした。

 

2021年1月11日 (月)

雪、雪、雪・・・

昨日のつづき、富山ライトレール乗車後は富山地方鉄道に向かいました。

はっきり言って好きでは無い、あのデザイナーが関わった電車に乗って、宇奈月温泉を目指したのですが、日本海側を走ってきた線路は電鉄石田駅を過ぎた当たりから進路を右に取り、電鉄桜井、いや今は電鉄黒部と名を変えた駅からはいよいよ黒部川に沿うように山肌を登っていきますが、それに伴って積雪量が増して行きます。

スノープロ-で線路上の雪を飛ばしながら力強く登ってたどり着いた終点、宇奈月温泉駅ではこんな状況に驚愕です。

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辛うじてプラットホームの縁は、乗降可能なように除雪されていますが、連結器から下は雪に突っ込んでいます。 到着する列車が線路上の雪を押しながらたどり着いた結果、一層雪が積み上がっているのでしょう。

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車止めが何処なのか、さっぱり判別できません。 ホーム上屋の積雪も1メートルほどです。

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2021年の豪雪では随所で運転見合わせを余儀なくされ、懸命な除雪作業が行われていると言うことです。 このコロナ禍にあって、地域の足を確保する事業に携わる方々には頭が下がる思いです。

 

2021年1月10日 (日)

豪雪が心配

寒波が南下して、降り続く日本海側の豪雪を心配しています。

2012年2月の降り続く雪の中、石川県工業試験場からのご依頼で金沢まで行く機会がありました。 ちょうど金曜日だったので1泊、翌日は富山で電車見物としました。

富山駅北口、初めて目にするLRT・富山ライトレールはブルーの0606編成がやって来ました。

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早速乗り込みます。 ユニバーサルデザインを徹底し乗車も楽々です。

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プラットホームとの段差はありません。

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車内には、デザインしたGK(GKデザイン機構) のプレートとともに、鉄道友の会ブルーリボン賞のプレートが。

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降りしきる雪の中を行く車内は温かくて静か、快適です。

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途中駅では0607編成と交換しました。

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そして終点・岩瀬浜。 一面の雪で、何処までが鉄道用地なのか、よく判りません。 その昔、ここにはスカイブルーのクモハ73+クハ79の2両編成がやって来た時代があったことを記憶しているのは、かなりの年配者になってしまいました。

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そのスカイブルーのクモハ73+クハ79の時代を回想しつつ、富山駅に引き返したら、積雪はもっと深いものになっていました。

今日の富山はこんなものじゃ無いんだろうな? 被害が出ないことを祈るばかりです。

 

 

2021年1月 9日 (土)

ビュルツブルグ

1979年7月16日、フランクフルトからニュルンベルグに向かう途中、乗って来た列車はビュルツブルグで暫し停車していたようです。 そこそこ大きな都市らしく、駅は賑わっていました。

反対側のホームには、スマートな111形電気機関車牽引の列車が到着します。 機関車の後ろ3両は腰が赤い1等車、腰の青い2等車がその後ろに続きますが、カラーデザインが揃っているので綺麗な編成です。

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プラットホームの光景はいかにも外国、2等車は上段下降式ユニット窓を下げて、ホームのワゴンから買い物です。

「アイン ビア ウントゥ ヴァイスヴルスト ビッテ」ってカッコ良くドイツ語で言って、買い物してみたかったのですが、1等車の窓は開きません。

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どういうわけか103形電機の列車を撮っていますが、もしかしたらこれに乗り換えたのかも知れません。

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カラーポジフィルムのマウントに、コマ目に貴陸していなかったことが悔やまれます。 デジカメの今なら、撮影日時もしっかり記録されるし、便利な世の中になったものと再認識します。

 

 

2021年1月 8日 (金)

転入

お預けしていた資料の返却と共に、大阪在住のT.Tさんから思いがけないプレゼントが届きました。 なんと、彼が80年代に製作した小田急1600形の模型!  たった1編成の小田急が大阪に居ても可哀想だからという理由で。

いや~良く実車を調査され、かなり正確な仕上がりではありませんか。 一部を当社仕様に合わせつつ、後はT.Tさんの味を大切にして保存したく思います。

永く眠っていた車両らしく、足回りが心許なかったのを調整すると共に、方向幕に自家製の幕を入れ、制動管に赤/白の色差しをしました。

新宿向きのクハ1658。

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小田原向きはデハ1608。

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フェニックス製真鍮キットの発売早々に入手、組み立てたそうで、ウェザリングが施されています。 足回りは当社所有の1600形と同仕様なので好都合、1600形だけの6連が組成できることになりました。

T.Tさんありがとうございます。 大切に保存させて頂きます。

 

2021年1月 7日 (木)

初めて乗ったヨーロッパの列車

それは1979年7月16日、西ドイツはフランクフルトからニュルンベルグに向かう列車、日本流に言えば“特急”で、あの103形電機の牽引で最高時速は200km/hです。 ニュルンベルグに向かった理由は、なんとなく鉄道模型の香りがしそうな都市だったからでした。

1等車と2等車がある編成で、ユーレールパスを買っているので当然1等車
を利用します。 こちらはもっとも標準的なコンパートメント、1室の定員は6名で、予約している乗客名と乗車区間が各客室の入り口に掲示されています。

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物珍しいOER3001氏は指定された座席に落ち着くことなどあり得るはずも無く、車内をウロチョロと見学します。 

個室の1室は列車セクレタリーの部屋になっていて、何やらビジネスの手伝いをしてくださるようでしたが、インターネットが無かった時代だからあり得たサービスですね。

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食堂車に行ってみました。 とりあえず、ビールと何かを注文した筈ですが、貴重なカラーポジフィルムではその写真は撮っていなかったのが、デジタル時代の今となっては残念です。

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こちらは編成中1両の開放車。 その開放という意味が理解しづらいのですが、ほとんどの客室がコンパートメントとなっている国だからこその表現です。 車体幅は日本国鉄の標準である2,800㎜より100㎜ほど狭いのですが、ゆったりしたフルリクライニングの3列座席です。

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斯様な列車でニュルンベルグに向かったのですが、なんと西ドイツを含むヨーロッパの客車って、編成組成に自由度が高いだけに、最後部はこんな感じで貫通扉の窓越しに過ぎ去る景色を眺められ、時速200km/hで迫力満点です。

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飛び去っていく架線と架線柱に興味を持ちました。 重錘式の自動張力調整装置です。

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どの辺りかさっぱり判りませんが、著しく芸術的なトンネルを飛び出しました。 向こう側の入り口の光が確認できるので、それほどの長さではないトンネルですが、左右にライオンのレリーフ、上部に“MDCCCLIV”と。

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トンネルを抜けた先はこの小さな駅でしたが、残念ながら駅名は確認できません。

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日本じゃ考えられないのですが、この列車のには開けることができる窓があったので、カメラを出して見ました。

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12両、いや13両編成なのか? 遙か先頭にワインレッドとクリームの103形電機、その後にネイビーブルーとクリームの2等客車8両の後が、ワインレッドとクリームの食堂車と1等車となっています。

これに乗ったことで一気にDBが気に入ってしまったのです。

さてさて、この後はまた何れということで失礼いたします。

 

 

2021年1月 6日 (水)

想い出の光景:15

1963(昭和38)年に華々しく登場した小田急3100形NSE車、最終増備となった第7編成(3221~3231)は1966(昭和41)年の製造でした。 

高校生だったこの頃、いつもハーフサイズカメラのCanon DEMIを所持し、小遣いが許す範囲でコマ目に撮影していたので、NSEに乗車したこの時(1967年4月)も、しっかり前方を記録していました。

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まだ屋根上にクーラーを増設する前の、綺麗な外観の時代、室内灯も中央部の光天井でした。

で、運転室右下には、速度計が付いていたことを思い出しました。 この時はおよそ80㎞/hを示しています。

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高速ぶりを乗客にアピールする意図があったのでしょうが、同様のサービスがあった中部地方の大手私鉄で何か問題があったのか、運輸省の役人がなんとかという理由からだとかで、その後外されてしまいました。 もっとも列車密度が高まり、結果としてそれほどアピールできないスピードになってしまいましたが。

 

2021年1月 5日 (火)

フランクフルト

西ドイツ国鉄に憧れていたので、空港から真っ先に目指したフランクフルト中央駅(Frankfurt HBF)に入るやいなや、目前にあの103形電機が牽く列車が到着しました。

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いやや、何と何と、憧れていた電機がずらりと。

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一番奥には141形がローカル列車を牽いて待機していました。。 

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この興奮から、OER3001氏の鉄道旅行は始まりました。

 

 

2021年1月 4日 (月)

〇〇初め

コロナ感染拡大で明けた2021年、1月2日から開始しました、模型製作を。

今回はその成果(?)を。

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使用した道具はこれら。

丸刃彫刻刀は、左から4.5㎜、3㎜、1.5㎜、左2本は2002年、右は2006年の購入でした。

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ペーパー工作の成果はこの切れ端多量排出ですが、まだまだ続きます。

 

 

2021年1月 3日 (日)

初めて見たヨーロッパ

OER3001氏が初めて海外に行ったのは1979年7月、ユーレイルパスを買ってヨーロッパの鉄道に乗る目的で、降り立ったのは西ドイツはフランクフルト。 

目にした最初の車両がこれ、フランクフルト中央駅前の路面電車でした。

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ほとんど事前知識も無く目に飛び込んだのは、お馴染みのデュバーグ製造の旧型車両に混じって活躍する新型車両でした。

ん、でもよく見ればこれもフロントデザインはデュバーグの香りましますが・・・、残念ながら知識がありません。

 

 

2021年1月 2日 (土)

2021 初日の出

自宅近くの小山(丘?)に登り、初日の出を拝むのが習慣になっていますが、コロナ禍の元旦も、希望に満ち溢れるようなエネルギーを感じることができました。

今年は予報通り寒い朝で、気温はマイナス4度。 6時52分、邪魔している雲の稜線が輝き始めました。

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ま~だまだ、雲が薄い部分が赤くなりました、6時53分。

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5時54分、面白いカタチの雲から昇ってくる光のアタマが確認できました。

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ゆっくりゆっくり昇って6時55分、強烈な光が目を刺します。 コロナで不安が増大するなか、2021のエネルギーに希望を感じる日の出でした。

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小山を下りて公園へ。 7時10分、いつもの定点観測地から望む富士山は、初日のエネルギーを受けた優しい表情を見せてくれました。

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なんとか穏やかな生活に戻って欲しいですね。 

 

 

2021年1月 1日 (金)

賀正

賀正

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コロナ禍の中で迎えた新年

今年こそ収束して、普通に運転会が楽しめることを願っています。

本年もよろしくお願い申し上げます。

 

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