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西の方の話しによれば、当時の塗色になって最後まで残った山陽電鉄3030×4のお別れ運転が、6月26日に行われたようです。
山陽電鉄の車両は永年神戸川崎車輌、川崎重工製の車両で、電装品が三菱電機と、小田急にも似た感じがして惹かれていたものでした。
これは1972(昭和47)年製の3050-3051-3530-3630と思われます。確か西代で撮っています。今は線路が地下化されているのですね。
ここまで入力した後でファイルを見ていたら、下の画像が見つかりました。先頭が3050ですから同じ編成でした。
1983(昭和58)年の出張時の空き時間を使っての寄り道でしたが、ここは御影辺りだったでしょうか。真面目にフィルム整理していなかったので記憶が薄らいでしまいました。
って、なにが?
はい、大したことは無いのですが、同一車両の山側/海側の写真が撮れました。やっとです。ちょっとした達成感を味わっています。その中からこの1両を。
姿を消しつつある1000形ワイドドア車、1756Fの3号車サハ1856です。こちらは山側、元4両編成の新宿方クハ1555の運転撤去が左方。
こちらが海側、運転台撤去が右方です。
こんなことに執念燃やす人も居ないかも知れませんが、実はこのために線路端へのウォーキング&撮影を続けていました。
2回目の新型コロナワクチン接種を終え、左肩の痛みが消えない中、午前中に山側を。午後にクルマで海側の撮影ができる場所に行きました。折からよみうりランド前駅で人身事故、向ヶ丘遊園~新百合ヶ丘間が不通、ダイヤ大幅乱れの中での収穫でした。
4月19日に開業したロマンスカーミュージアム、初訪問は開業3日目の21日でしたが・・・、
2ヶ月後の6月25日、所用で大阪から急遽来られた友人と落ち合うことができました。そこで、スマートフォンを持っていない友人のため、OER3001氏のスマホで入館予約を検索するとなんと! 夕刻時間帯は直ぐにでも予約できる状況ではありませんか。ということで早速、新百合ヶ丘から海老名に急行しました。
2度目なので勝手知ったる館内、夕刻の入館者が少ない時間帯で、前回は叶わなかった人が映り込まない情景の撮影に専念しました。19日にご逝去された生方良雄さんの業績が並び、あらためてご冥福をお祈りしました。
反対側も来館者を入れずに撮れましたが、これが精一杯。左の20000形RSEを入れようとすれば、どうしても来館者を除くことができなかったので、それはまた次回訪問の時にトライしましょう。
2階のジオラマも、無人状態で撮ることができました。
そして今回は遠路来られた友人と、行き交う電車を眺められるミュージアムクラブハウスで、ゆっくりコーヒーを楽しみながらの会話に興じました。
入館料900円、その価値をどう見るか?
今回は夕刻に有効に予約・入館、ほぼ1時間半の見学。悪くないかなと思いました。
新百合ヶ丘から分岐する小田急多摩線の開業は1974(昭和49)年6月1日、小田急永山駅までの開業でした。プラットホームは1番ホームのみの使用。新百合ヶ丘方に渡り線が仮設され、到着した下り列車が折り返していました。
右隣は工事中の京王永山駅。京王はこの当時、京王多摩センターまでの工事真っ只中でした。
それから47年、改めて見ると随分と変わっていることに驚きます。左側の木が大きく育ち、枝で視界が遮られるホーム上屋は10両編成対応に延長され、同様に京王永山駅もその内部を望むことは不可能になりました。
実は昨日のCedarさまからのコメント「可動ブラケット式だったのが普通の懸架式に変わっている」で刺激されました。そう言えば小田急多摩線は、将来の高速運転も可能なように、全線にわたり道路とは立体交差、曲線半径は1,000~3,500mの大半径(新百合ヶ丘取り付け部のみ555m)とし、架線設備も新幹線並みだと聞いていた記憶が戻りました。
下の写真はそれを示すように、諏訪隧道を駆け抜けてきた1700形のパンタグラフが接する架線、しっかり可動ブラケットに支持されています。
同じ場所での今日の状況を示したくとも、今はこんなに線路近くに立ち入ることはできません。
諏訪隧道手前には電車見橋が架けられ、線路両側にはがっちりした柵が設けられてしまい、これが精一杯です。
それでも架線支持が変わっていることは確認できます。
この変化がいつ頃だったのか? 撮りだめた写真を頼りに調査してみることにしましょうか。
生方良雄さんご逝去との報せを受けてしまいました。本日6月24日、告別式が執り行われます。
OER3001を名乗る小生が、生方良雄さんというお名前を知ったのはこの雑誌でした。1963年4月号、小学6年生で手にした1冊で、教科書以上に何度も何度も読んだ雑誌。痛まないように特別のカバーをかけて保存していました。
その中のこの記事を何度も熟読することで、小田急に興味が深まり、ますますファンになって行くことになった次第です。
高校時代から入会した鉄道友の会を通じて、憧れていた生方さんに接することが接することもでき、とても嬉しかったことが思い出されます。
1973年の海老名車両基地を見学したときには、ご子息を連れて来られた生方さんが、メンバー諸氏と和やかに懇談しているお姿を撮っていました。生方さんの視線は故吉村光夫氏です。左背中はモハメイドペーパーさま、右の背中はK.Aさんと、趣味のお仲間たちで楽しいひとときでした。
1981年7月の暑い日でした。小田急電鉄社内有志によって開催された1800形お別れ会では、これまでの1800形の想い出やご苦労をスピーチ頂きました。斯様な小田急社内行事にお声掛け頂いたのも、生方さんのご配慮だったと思います。
ロマンスカー3000形が引退となる1992年、唐木田車庫でのお別れ式でもSSE車にワインを捧げて居られました。
いつもカッコ良く中折れ帽をかぶり、穏やかな笑みで接してくださった生方さん。優しいながらも仕事に厳しそうな面も感じられた紳士でした。そして何よりも、小田急のこと、小田急電車のことを中心に、鉄道界の貴重な記録をまとめ、多くの著作を残してくださりました。
大学の大先輩としても、大切な方でした。永きにわたり大変お世話になり、多くのことをご教示くださりましたこと、感謝の念に堪えません。
1925(大正14)年のお生まれで享年96歳。 謹んでご冥福をお祈りします。
トヨタ自動車(株)が発売した燃料電池バス「SORA」、地球の水の循環を表した、Sky、Ocean、River、Airの頭文字をつなげたネーミングですが、都バスを中心にだいぶ見かけるようになりました。
東京モーターショーで初めて見たとき、なんと未来的なバスかと思ったことを覚えています。それが遂に我が街にも。こちらは「多摩200 こ ・・・2」のナンバーを付けたJ002車です。
斜め後方からは斯様な感じ。
隣に並んだ神奈中バスと比べて高い屋根が目立ちます。
こちらは「多摩200 を ・・・1」のナンバーを付けたJ001車。
その後方も撮っておきました。
因みにこの隣には京王ライナーラッピングの京王バス。
本家京王ライナーを忠実に模している様子がわかると思います。
ふと、駅に向かう途中でバスの見学。特にバスファンに転じたわけではありませんので念のため。
久しぶりに物理学を思い出しての撮影でした。これを社会学的表現に変換すると“隙間電車”となるようです(笑)。
すっかり定着した感がある“隙間電車”という呼び方。おそらく「隙間で隙間電車」をアップされたCedarさまが最初に使われたと思っていますが、Cedarさまの都会とは違う雰囲気でも。
なかなかタイミングが難儀です。
距離がある向こう側の電車なら多少は楽ですが・・・
いや~、なかなか難しいものです。
それにしても、通い慣れた場所だからこそ、こんなフィルム時代にはできなかった“無駄撮り”までできる余裕が。
5月18日以来の線路端へのウォーキングは、酷い降雨で無い限りほぼ毎日続けていましたがまさに「継続は力なり」です。
梅雨入りしたのでこの日も朝からシトシト降り続く雨でしたが、時折止むことも。傘を差して線路端に着いたその時、友人から「今日運用に就いているらしい」とのメール。まもなくやって来たのが待望のこの編成でした。
1756
1706
1806
1856
1906
1956
未更新の1000形には廃車も発生しており、ホームドア整備の進捗によって活躍の場が狭くなっているワイドドア車。4両編成車を分割して中間に入れた1700形6両編成の中間サハは、中間車改造したクハの向きによって車体の向き、床下機器配置が異なります。
何故かこのバージョンだけ、なかなか撮れなかったのがやっと! 達成感を味わうことができました。
模型じゃなくホンモノの併走は迫力があります。その姿を狙おうとしても、なかなかタイミングが合わないことが多く、皆さまもご苦労されていらっしゃることと思います。
多摩ニュータウン内に乗り入れる小田急と京王は、それぞれ永山駅手前から多摩センター駅までの区間で並んで走ります。ここのところの日課のウォーキングで訪れる撮影場所から、そのいくつかを取り上げます。
先ずは6月7日の15:10上り、小田急は3000形各停と京王の9000系区間急行、共に多摩センター駅発15:09ですが、手前の京王の方が加速が良いようで、手前に来たときには小田急が隠れてしまいました。
6月13日13:00の下り、小田急は1000形ワイドドア編成でダイヤ上では永山発12:59、京王は9000系区間急行、ダイヤ上では永山発12:58。やっぱり京王が若干早く目前を通過するのでこれより手前での捕獲はできませんでした。
6月18日10:41の上り、小田急は3000形各停、後ろから追い上げて来た京王は9000系各停、どちらも同じ10:40発です。
併走を狙う目的では無いので、時には撮影対象が遮られてしまうこともあります。6月8日14:31にはこんなことになってしまいました。小田急の新5000形を狙おうと思ったら、サンリオラッピングの9000系に遮られてしまいました。上りの都電(都10-000系)がもっと遅かったら最悪でした。
この場所は誰にも邪魔されないので良い場所なのですが、この季節は蚊に邪魔されます。カメラを構える手でさえ噛まれたことがあってから、長袖、木綿の手袋、ハット、かゆみ止めが必需品です。
不安定な天候の中、線路端に向かうウォーキング。この日もいつもの場所で撮り始めました。これがその最初の一枚。向こうの空には怪しげな雲が垂れ込めていましたが、3264Fの唐木田行き各停が来た14時13分にはまずまずの光線でした。
雲の動きを見ると、こちらに近づいてくる様子。スマホで確認した“東京アメッシュ”では稲城から新百合ヶ丘辺りにかけては豪雨の様子。
NHK朝ドラの“おかえりモネ”ではないですが、気象予報士なら10分後に強い雨が降り出すと予測し、14時21分に京王8712Fの橋本行き準特急を撮った後に退散しました。
現地滞在10分ほどで、撮った列車は4本。この日は期待していた編成の運用も無く、ほっとしました。
駅へ早足で戻り、雨よけのためにバス利用とたところでパラパラと。賢明な判断だったと自己満足した次第でした。
神奈川県立辻堂海浜公園には所用で度々訪れますが、久しぶりに時間があったので保存車両をゆっくり見学してみました。保存車両は公園の西端、交通公園の一角にあります。
遠目にも相当痛んでいる様子が伺えますが、近づいてみてその哀れな姿に驚きました。
腐食が進行した前照灯下部は落ちかかっています。
側面に回って見るとさらにショック。
もう、修復は無理に近い状態でしょうか。
ただ錆を落としてパテ塗り、下地処理して再塗装ではとてもとても無理です。
昭和40年日本車輌東京製造のクハ2658、29年に渡る活躍の後、この地に保存されて既に27年です。
自由に出入りできる車内は、外部に比べれば傷んでいないように見えます。
立ち入ることが出来ないお陰で、運転台はほこりを被ってもいても痛んでいません。
それにしても、この状態を晒しているのには心が痛みます。代替車両にするにも、解体して搬出するにしても既に公園遊具が設置されているため、搬出経路が確保しづらい状況です。課題山積の中、時間だけが過ぎて行きます。
因みに探したら見つかりました。2658Fが元気に活躍していた時代の記録が。
柿生-新百合ヶ丘間を行く上り準急の姿。ポジが大分変色していましたが何とか。思えばリバーサルフィルムが高価だった時代に良く撮っていたと思います。今ではこの場所での撮影も出来なくなってしまいました。
相鉄全線乗り鉄を楽しんだ日、鶴間駅で発生した人身事故のため、相模大野~大和間で運転を見合わせていましたが、構わずホームに上がってみたところ・・・、OER3001氏には願っても居ないタイミング。 オリパラ装飾の1096Fが上り副本線で「回送」表示を掲示して停車中でした。
大和発新宿行き快速急行として運転再開と読んで、それまでの時間を有効活用させて頂きました。
運転再開となった最初の上り、ホームに溢れていた人々が一挙に乗り込み、久しぶりに見た満員光景。
ですが、OER3001氏は人が少なくなったホームでゆっくり1096Fの観察を始めました。ケープアイボリーのラッピングも見事なものです。ステップに東京都の表示もありました。
1096海側はパラリンピックキャラクターのソメイティ。
こちらは1396海側、オリンピックキャラクターのミライトワ。
それぞれ全ての競技で描かれているようです。ちなみに10両全車、キャラクターを撮っておきましたが、ここでその全てをご紹介するには無理がありますが、各車の貼り分けは以下のように、オリンピック6両、パラリンピック4両の構成でした。
10号車1096:(パラリンピック)ソメイティ
9号車1046:(パラリンピック) ソメイティ
8号車1146:(オリンピック)ミライトワ
7号車1196:(オリンピック) ミライトワ
6号車1296:(オリンピック) ミライトワ
5号車1246:(パラリンピック) ソメイティ
4号車1346:(パラリンピック) ソメイティ
3号車1396:(オリンピック) ミライトワ
2号車1446:(オリンピック) ミライトワ
1号車1496:(オリンピック) ミライトワ
但し、これは全て海側の話し。山側はそれぞれ逆になっているようで、海/山(左/右)でバランストっているようです。
と言うことで、運転再開となるまでの良い時間つぶしに。大和発快速急行新宿行きとなったこの電車に乗って帰りました。
F井さんから頂いた使用期限間近の株主優待乗車証を有効活用で、相模鉄道全線乗り鉄をしてみました。
最初は改良工事たけなわの海老名駅。JR埼京線カラーのE233が、小田急の隣に居る光景も、大分違和感が無くなりました。
しかし相鉄乗り鉄と言うなら、後発の相鉄車両に乗車することとしました。先ずは素直に横浜まで一直線。横浜では模型パーツ調達にIMONへ。
これからがこの日のイベント。先ずは西谷でオリジナルカラーの11000系をキャッチ。ヨコハマネイビーブルーへの変更が進む中、このカラーも今のうちです。
東急直通用に用意した20000系は大分増えてきたようです。
ここからJR直通線の羽沢横浜国大駅を目指します。調子に乗ってそのまま乗っていたら、車窓に斯様な車両発見! この車両何処に向かったのでしょう?
折り返し乗車しやすい島式ホームの武蔵小杉で相鉄行きを待つ間、隣を通過する新幹線を収めます。
横須賀線へのE235投入も大分進んでいるようです。
新車の香りプンプンでした
それに比べて、E217系は大分疲労感が漂っているようです。いつもこの電車見て思うのですが、もっと綺麗に「顔洗って」上げないものでしょうか。
日中1時間に2本しか設定されていない相鉄直通ダイヤ。幸いにもE233ではなく、12000系が来てくれました。
再び相鉄線内に戻った後は、いずみ野線で湘南台へ。全線設備が新しいいずみ野線内での撮影は、今回は見送り。
この日、不幸にも小田急江ノ島線鶴間駅で発生した人身事故のため、大和~相模大野間運転見合わせ。ならば大和へ行ってみようと、二俣川経由で向かいました。
かくしてこの日の昼下がり、相鉄全線乗り潰しを楽しませて頂きました。F井さんありがとうございました。
なかなか終息の目処が立たない新型コロナウイルス感染症の脅威、多くの国民に我慢を強いている政府は、専門家の意見に従うそぶりを見せず、どうしても予定通りにオリパラ開催に進もうとしているようです。
コロナさえ無ければ、開催直前となったこの時期は、おそらく相当な期待感でわくわくしていたのでしょう。オリパララッピングの電車に遭遇すると複雑な思いです。
小田急は1000形1096Fの10両編成が、ロイヤルブルー帯下をアイボリーとし、マスコットキャラクターのミライトワ、ソメイティがあしらわれています。
京王は9000形9741Fが、戸袋部にマスコットキャラクターのミライトワ、ソメイティをラッピングしています。
これらはいつまで走るのでしょう?
もし、今の緊急事態がさらに延長されることになって、オリパラ開催中止とでもなったら・・・、このラッピングは速やかに剥がされるのでしょうね。貴重な記録になるかも知れません。
ここのところ模型製作関連を取り上げなかったのには訳があって・・・。
窓抜きを終え、屋根のビードを貼り終え、側扉を貼って箱に組もうと思っていたところでとんでもない失敗に気付き、長らくその落胆から立ち直れないで居たのです。
それは側扉の1カ所、所定寸法より1.5㎜広く抜いてしまっていたことでした。しかも纏めて3両分を罫書いていたので合計6カ所の側扉を。
新たに3両分作る気にもならず、斯様な方法で修復することとしました。1.5㎜の幅詰めです。裏から見るとそれが良く判ります。
表面には側扉枠が重なります。屋根ビードが終わっているのに、幅詰めした部分は後でパテで平滑にしなければなりません。
同様の1両は箱にして、とりあえずラッカープライマーを塗っておきました。
漸く気力が戻って来たようです。気を取り直してサフェーサー吹いて研きましょうか。
健康維持のウォーキングは、ここ3週間ほどほぼ毎日線路端に向かっていましたが、その間に保線関係の作業に出会したのは京王で1回、小田急で3回になりますが、今回の光景は初めて目の当たりにしたもの。
架線点検用のやぐら(?)、正式な呼び名は存じませんが折りたたみ式の長い梯子の上に作業員が一人。もう一人が押して来ましたが、軽い力で線路上を転がるようです。
電車線へのケーブル接続部を点検しているのでしょうか。どこかと無線で連絡取り合いながら、スパナでぐいぐい締め付けています。
全部で6人チームのようです。転がして次のポイントに移動して行きますが・・・。
作業可能な時間は8分も無いでしょうか、先行者から列車接近の報せが入れば、やぐらは線路脇に外して待機します。
実に地道な作業を根気良く丁寧に。その前を、いつものように列車が駆け抜けていきました。
検測車で得たデータに基づき、日中に斯様な作業を実施していたとは驚きです。
現業の方に頭が下がりました。
思えばフィルムからデジタルになったお陰で、所謂“捨てコマ”ではないですが、狙ったアングル以外にも序でに気軽にシャッターを切れるようになりました。“1カットいくら”と計算する時代には考えられない贅沢です。
今回はその贅沢なカットから電車の横顔を。最初は一世を風靡した9000形の流れをくむフェイスの1000形。OER3001氏が好きなフェイスです。
それが、その後は合理的なデザインになってしまった3000形が多量に増備されるようになって、OER3001氏には悲しい月日が重なるようになってしまいました。
その3000形も、唯一の鋼製車となってしまった8000形と併結する姿は魅力的です。
その30008000形のフェイス、1982(昭和57)年に登場した際は、9000形に比して随分手を抜いたフェイスだなと思ったのですが・・・。
こうして今見ると、なかなか良いかも知れません。
そして一番新しい5000型。これはこれで結構気に入って来ました。
4000形が抜けていました。この次にトライすることにしましょう。
連日、一眼レフカメラを持って線路端へのウォーキング。同じ時間帯に行っているので来る電車はおよそ想像ができます。今回は2016(平成28)年増備の4000形、最終編4066Fを収めることが出来ました。
Tc1:4066(10号車)
M1:4016(9号車)
M2:4116(8号車)
M3:4216(7号車)
M4:4316(6号車)
T1:4366(5号車)
T2:4466(4号車)
M5:4416(3号車)
M6:4516(2号車)
Tc2:4566(1号車)
雨上がりのこの日、ISOは16000、シャッター1/2000、露出補正+0.7ステップとしてみました。
それにしてもこの場所、蚊が多くて困ります。10両編成を順番に撮ってる最中に、左手甲を刺されてしまいかゆいかゆい!
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