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遂に、規定のデータ容量に達してしまい、更新不能になってしまいました。
いつも拙ブログをご覧頂いています皆さま、恐縮ですが9月1日までお待ちください。
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遂に、規定のデータ容量に達してしまい、更新不能になってしまいました。
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しつこく続けます、秩父鉄道の今。今回は東急からの譲受車特集ということで。東急8500系6両と8090系29両の合計35両が活躍中です。
こちらは8090系中間車から2両編成に改造された7800系(デハ7800-クハ7900)で、4編成が存在します。
8500系先頭車を活用した3両編成は7500系(クハ7700-デハ7600-デハ7500)とされ、7編成が存在するとのこと。その内の第1編成には、OER3001氏が好まないラッピングが施されていました。
その全貌はこのようです。武州日野近くの安谷橋を渡ります。先頭がクハ7701。
振り向けばデハ7501の側面が確認できました。
7505編成も妙なラッピングになっています。こちらはクハ7705、白久付近で確認しました。
後方はデハ7505。
あれれ、7500系は全てラッピングされているのですか? 7502編成もこの通りでした。
東急8500系転じた7000系、OER3001氏には理解が難しいナンバリングです。東急にいた7000系は、あのPⅢ台車のバッド社スタイルだった筈。その7000を名乗るのですから。
それは良いとして、秩父の7000系となった8500系は全車が中間車だったので、先頭車改造されています。
浦山口の平沢稲荷神社から捉えた7800系は7801編成、遠目に見る姿が好ましく思えました。
東急出自の35両、当分は元気な姿を見せてくれるようです。
実は全開の記事、掲載準備していたら一日前にアップされてしまいました。全くOER3001氏の手違いです(涙)。今更取り消す訳にも行かず・・・、同日に2回の発信になってしまいました。
気を取り直して2回目はここでの画像を。白久駅近くの通称“お立ち台”。最初は東急でした。
今や巷ではジャカルタ電車とも揶揄される都営6000系、三田線登場時の帯色は赤だったのが後年、ラインカラーの濃いブルーになっていましたが、さらに薄いブルーとされて東西線の用です。
待っていたお目当てがやって来ました。旧秩父色ではなく西武から譲受改造後のオリジナルカラーでした。
ということで、東急、都営、西武と、出自の異なる譲受車が大活躍です。
小田急1800形転じた800系も過去の話。国鉄101系を譲受された時代を経て、都営6000系や西武101系、さらには東急からも車両譲受、秩父鉄道オリジナルの電車が居なくなってしまった今、少々気合いを入れて再訪しました。
この日、最初に待ち受けた電車で気持ちは萎えてしまいました。OER3001氏はこの種のラッピング電車は好みません。
旧秩父色となったこれならGoodです。それにしても3扉の中央を埋めたこの窓割りは歓迎できません。
西武鉄道からの乗り入れが行われるようになって久しいですが、秩父鉄道線内らしい撮影地で西武電車を撮るのが目的でした。この車両はこの風景にマッチし、好ましいです。
今回の再訪、OER3001氏の自宅からではなかなか撮影できない障害も、たかべーさまの多大なるご尽力によってクリアできました。たかべーさまには心よりお礼申し上げます。
その収穫を一度でご紹介する訳には行きませんので、続編をご期待頂ければ光栄です。
同日2度目の発信で恐縮ですが、既に8月6日、7日と2回に渡ってここで取り上げましたが・・・、
今年のその日に運転された“原爆電車”の動画が掲載されました。是非ご覧ください。
原爆の瞬間も走った広島電鉄 運転士が見た「特別な朝」:朝日新聞デジタル (asahi.com)
一連のスガ政権の楽観視に基づく後手後手の施策が招いたパンデミック。現総理が仰るように、“自助”しかないのかも知れません。最初から現総理は、政府は何もできないと宣言しているのですからね。
人の流れを減らすと号令掛けている折、製作中の模型パーツ調達に出掛けました。行先は毎日のように映し出されるシブヤ。電車に乗る前に、雨の中、反対側に到着する当駅止まりの電車を撮ったら早々と「回送」表示に。ここで引き上げ線に入り、折り返しとなる運用です。
雨脚が強くなったその後に、「準特急」で来た5000系は既に「各停」表示に切り替わっていました。
と、それらを確認、記録してから、「各停」で来た新宿行きは「準特急」に衣替えするこれに乗って、目的地に向かいました。運転士は女性です。
渋谷では、井の頭線最後部に位置する「西口」付近は、例のスクランブル交差点付近に比べて元より人通りが少なく、パーツ調達の目的地までも近い。改札出て目的地へ一目散。調達したら即退散、という自己防衛で目的達成でした。
模型製作においては様々な工程や作業がありますが、穴開け作業を避けて通ることはできません。ピンバイスに始まり、先にご紹介した自作のモーターツールだけでも、それなりに何とかなりますが、数多くの穴開けを効率よくやるにはこれが欠かせません。
2000(平成12)年9月購入と本体に書かれていました。2011(平成23)年9月に駆動ベルトを交換していますので、そろそろ再度交換が必要になるかも知れません。
一応、マイクロ・クロステーブルも備えました。
左右にミリ単位での位置調整が可能な“筈”ですが、残念ながらその機能を使ったことが無く今日に至っています。
とは言え、このテーブルドリルが有ったからこそ、斯様な工作も進みます。
罫書き線に沿って、地道に糸鋸で切るのが正統派なのでしょうし、これまでそれもやって来ましたが、今回は横着してみることにした次第です。
さて、この顛末はどうなることか。予測されることはヤスリがけで生じる金属粉の始末です。まあ、お仲間の阪鉄車輌さまがなさることほどでは無いので、ゆっくり進めることとしましょう。
「今日の一枚 No.127」で古町の想い出を取り上げましたが、伊予鉄道に魅力を感じている同士がいらっしゃったことを嬉しく思います。色々な魅力がある中で最大なのは、やっぱり地方鉄道と軌道線の混在でしょうか。
ここが、地方鉄道の高浜線と軌道線の松山市内線が直角に交わる大手町。大手町という地名に、東京育ちのOER3001氏は興味津々だったことを思い出します。伊予鉄らしい香りが漂ってい ナニワ工機製のカルダン車601が、踏切を低速でダダダダダダダダと音をさせて通過して行きます。
踏切が上がると、道路で停車していた市内線が同じく。ただ、鉄道線の通過に比べれば音が軽い、短い。
もう一方の古町、軌道線(市内線)の車両が左手前から鉄道線を渡って右方向に行くところです。
軌道線が渡り終えればこの通り、やって来たのはモハ112。1967(昭和42)年の横河原線電化に際して譲受した元西武鉄道のモハ151形でした。
古町駅西側にある車両工場と留置線には、鉄道線、軌道線両方の車両が並びます。模型的でなんとも言えぬ良さがありますね。
結局、この地を訪れたのは全て出張がらみ。今度は自腹でゆっくり行かなくてはいけませんね。
前回触れなかった車内のことを。
室内照明は車両中央にビルトインされた光天井。集中冷房からの吹き出しが、その左右にセットされています。
また、これは5002の室内ですが、座席は各車で異なるカラーとされていました。
西武が初めての特急車両を設計するのにあたって、各社の特急車両を調査し参考にしたと語られていましたが、とりわけ小田急NSEの影響が強かったと思うのはOER3001氏の依怙贔屓でしょうか。
その証拠は次の画像です。冷房強化改造後のNSE車内です。
荷棚は小田急はアルミフレームとアクリル板の造形でしたが、西武は通勤車両同様のパイプ。製造コストを抑えながら見かけをよくする工夫が感じ取れたものです。
一方運転台は、当時の人間工学的観点を取り入れ、マスコン、ブレーキ弁取り付けを確か15度傾けたものとなっていました。
そんな5000系を、E851と並べた反対側からも、4両編成の全景を撮っておきました。
もちろん、秩父線用に用意された101系もしっかりと。まだ背後にはトニーベージュと西武レッドの車両も多く居た時代でした。
それにしても当時の車両、4両編成でユニットになっていたというのは模型ファンにはありがたかったですね。今ではすっかり、どれもこれも10両が当たり前のように・・・。
永年お付き合い頂いているお仲間のブログ「ぬか屋の徒然日記」では昨日、「新車顔揃え」と題して1969(昭和44)年の秩父線開業に合わせて登場させた、所謂“3兄弟”が取り上げられました。
しかも、同じくお仲間のモハメイドペーパーさまが8月9日、1977(昭和52)年の2000系見学会を取り上げられたことに端を発してのことだったと。
ならば両氏とも古くからお付き合いさせて頂いている関係上、OER3001氏もコラボレーションということで・・・。
西武鉄道5000系特急車両は、1970年のブルーリボン賞に輝きました。その授賞式は8月26日に小手指車両基地で行われ、E851形電機と並べての撮影会が行われました。
登場時の5000系はTc1-M1-M2-Tc2の4両編成で、6両編成となるのは後年のこと。
この時、先頭車両の最前部側窓には受賞を祝うポスターが掲げられました。
実はこのポスターは、鉄道友の会東京支部委員だったOER3001氏の作でした。今のようにパソコンで作って大型出力機でプリントなどという方法は無く、当時は全て手書きでした。
ところで、当ブログで利用中のディスク容量が99%を越えたようです。近日、容量オーバーで使用できなくなるので対策を考えなければなりません。悩ましいことです。
1978(昭和53)年4月、この地への出張に恵まれた夜のフリータイムは、迷うこと無く伊予鉄道松山市内線へ。市内を巡る環状線に乗ってみると、まるで東急世田谷線のように、鉄砲町、清水町、高砂町、木屋町とか、まさに市内の町を抜けて、古町(こまち)へ。この古町がまた何と魅力的なところか!!
古町は伊予鉄道の中心的機能を果たす地で、高浜線との接続駅。隣には車両工場を擁します。
なんと、乗ってきたこの59号はその高浜線を横切るように進み、国鉄松山駅前に向かうのです。直接吊架式を進んで来たビューゲルが、高浜線のシンプルカテナリーを擦りながら再び直接吊架式区間へ。余談ですがこの先大手町では再び両線が直角にクロスすることになり、ビューゲルから火花が散ることになります。
何とも魅力的な電車ではありませんか、伊予鉄道!
東京オリンピックの喧噪を避け、台風10号を取り巻く雨雲の動きとの戦いながら、もしかしたら最後になるかも知れぬと聞いた1000形1051Fによるクヤ走行を収めて来ました。
最初は8月7日(土)、開成-栢山間ですが、雨除けの場所がない田圃の中での列車待ちはかなりの高リスクです。時折サ~ッと来る雨を凌ぎながら待ちました。因みにこの時はかなり離れた右方向に同業者2名。
このサイドビューを撮ることが最大目的だったのですが・・・、残念ながら検測用パンタが畳まれていました。
まあ、それは仕方ないとして、午前中は風雨が強まるとの予報の8月8日(日)も、根性で出掛けることにしました。場所はウォーキング&撮影で行くいつもの場所。 雨のお陰で逆光に悩まされることなくしっとりとした撮影となりました。
折角なので折り返しの1051F先頭の姿も押さえますが、5両目となるクヤは架線柱にかかってしまいました。
仕方ないので最後にこれ。1151に連結されたクヤであることが判ります。
それにしてもこんな天気の中でも撮影に出掛けるのですから、普通の人には理解できないかも知れませんね。因みにこの日の同業者は“ゼロ”で良かった!
京王DAXと小田急クヤと、立て続けに検測車撮影して気付いたことがあります。京王が「回送」なのに対し小田急は「試運転」を表示しています。小田急の方が正しいように思えます。
京王の検測車クヤ900は“DAX”(Dynamic Analysical eXpress)とネーミングされ、デヤ900形に連結されての検測走行が行われます。友人からの情報を得て、2日間の検測走行を撮りに出掛けました。
第1日目はまずここ、若葉台駅に侵入してくる所を狙いました、12時41分。
2回目は、京王多摩センターで折り返して来るのを京王永山で待ち受けます。13時03分でしたが、ホーム後端には3名、隣の下りホーム先端には行儀が悪い数名の高校生? そういう彼らと並んで撮るのはどうも気が進みませんので、離れて撮りました。
3回目は、どうも駅構内ではマナーの悪い輩が多いので避け、通い慣れている“マイガーデン”とも言えそうな、京王永山-京王多摩センター間へ。14時08分、生憎上り列車に邪魔されて、編成後部撮れませんでした。
橋本から戻って来るのを今度は歩道橋の上から狙います。14時35分でした。
2日目は中河原-聖蹟桜ヶ丘間の多摩川橋梁として、最初は左岸、府中市側から狙いました。府中市内に見付けた駐車場にクルマを止め、線路南側の光線状態の良い場所で待ち受けましたが暑い暑い。シニアが一人、数メートル左にいらっしゃいました。
2日目の2回目は、多摩市側へ。クルマは京王ショッピングモールの駐車場に入れ、多摩川右岸で待ち受けます。12時08分にやって来ました。土手の線路近くに一人、カメラを構えた人は居ましたが、広い空の下、暑さと戦いながらも気持ち良く撮ることができました。
それにしても、走行機会が少ない列車の情報、みなさん良くご存じですね。そういうOER3001氏も同様ですが、どうか撮影マナーだけは遵守して欲しいです。ホームから身を乗り出したり、後から来て前を遮るなどもってのほか。緊急事態宣言下なのですから、余計に誰もいない場所でのんびりと撮影したいものです。
折角なので、昨日に続けて広島の話題です。
“被爆電車”として有名な650形は、1942(昭和17)年に木南車輌製造で651 - 655の5輌が製造されました。3年後に被爆することになるとは・・・。
現在は651号と652号の2両が、主に朝のラッシュ時に運行されている他、653号が当時の塗装に復刻され、イベント電車として貸切運行されることがあるようです。
2006(平成18)年の出張時には、その651号にも出会い、乗車することができました。
宇品へ行ってみたのですが、「広島港」と名称変更された後でした。
早速車内に。懐かしさを感じるニス塗りに緑色モケットの座席。
運転台を見れば、大きなマスターコントローラーは三菱製。ワンマン対応機器が増設されていますが、このマスコン、ブレーキ弁で被爆したのだと思うと、こみ上げてくるものを感じたものです。
車内には当車の由来が掲示されていました。
残念ながら6日の平和記念式典でのあいさつで、用意された原稿の重要な部分であった筈の「わが国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、『核兵器のない世界』の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要だ」を、読み飛ばしても気付かない首相の国民として、平和維持に一抹の不安を抱えます。
今日、8月6日という日は人類として忘れてはならない日です。“ノーモア・ヒロシマ”
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが、広島市上空約9600メートルで世界初の原子爆弾リトルボーイを投下し、上空約600メートルで爆発してから76年の歳月が流れました。
OER3001氏が初めてここを訪れたのは、原爆投下から32年経った時でしたが、それから44年が過ぎてしまいました。
広島の電車は魅力的ですが、年月の流れと共に車両も大きく変っていますね。出張で訪れたこの時は、空いた時間を有効活用。さまざまな電車が走る光景にすっかり魅せられてしまいました。
21年後の1998年にも、出張で広島に行けたようで、帰りの新幹線の時間まで、駅前で何枚か撮影していました。その中に、貴重なものを発見、元京都市電とすれ違う左側は653号!
2006年に一度引退しながらも、“被爆電車”として現在まで大切に保管されている653号現役時代の姿でした。
小田原駅西口(小田急側、新幹線口)広場には、デカい銅像が。北条早雲公と書かれています。
北条早雲公なる人物、知らなかったので調べてみると、Wikipedeaには“北条 早雲(ほうじょう そううん)こと伊勢 宗瑞(いせ そうずい)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。”と。
それを株式会社竹中銅器なる富山県の企業が製作、1990年に設置したものだと判りました。
そんなことはどうでも良く、沿線ロケハンのために足柄駅(JR御殿場線にも同名駅あり)までの線路沿いを歩きます。
この区間を歩いて見て、あらためて伊豆箱根鉄道大雄山線とほぼ平行していることが実感できました。
小田急の足柄駅東側では、五百羅漢駅北で小田急がオーバークロスしますが、その手前がここ井細田(いさいだ)駅です。
ちょうど、リバイバルカラーの5501Fだったので発車した姿を撮影。
そうしたら遂に、大粒の雨粒がボタボタと。やむを得ず井細田駅で暫しの雨宿り。直ぐに雨雲が移動してくれたので、大雄山年に乗ることなくここ、足柄駅まで歩きました。
足柄駅には81キロポストが、下りホーム下に確認できます。
ということで足柄から新松田までの各駅停車に乗車。新松田始発の急行5054Fで帰途につきました。
東京都に加え、神奈川県も緊急事態宣言発出となったこの日、空いた電車で一人小田原へ。3密なんて全く無関係でした。
新5000形の増備と引き換えに、急速に両数を減らしつつあるステンレスの1000形。その中で異彩を放つ箱根登山区間用の赤い1000形も、既に半数が廃車されてしまったと聞きます。
東京都に加えて隣接3県も緊急事態宣言適用となった初日、急いで小田原に行ってみました。赤い1000形の横を、赤いロマンスカーGSE70000形が箱根湯本に向けて発車しました。この取り合わせを見られるのもあと僅かと言うことなのでしょうか。
これを撮るために入場券を買って、JR線ホームに行きました。小田原駅で見られる84キロポストと一緒に。
撮れるときに撮っておかないと、“最後”の時が迫ると必ず、大嫌いな葬式鉄騒ぎが起こりますから。
さて、折角小田原へ来たのだから、運賃を有効活用。この後の成果は次回にということに・・・。
乗り換えの序でにちょっとだけ撮影タイム。しかしホームドアが整備され、地下鉄の車両を撮れる場所も苦労するようになりました。
気付けば丸ノ内線の車両置き換えもだいぶ進んだようで、この日は2000系ばかりで02系は見られませんでした。
赤坂方向を望めるホーム端からも撮っておきました。電車の右側面をもう少し入れたいのですが、トンネルを出て来る荻窪行きでは無理。
45年前も仕方なく、走り去る池袋行きの後ろを撮っていました。
同じ場所で撮っても今は、ホームドアが障害となり、カメラ位置を低く構えることは出来なくなってしまいました。
撮影目的で出掛けた場所では無く、序で撮りした写真でも、45年の月日の経過から変化した風景が対比できて面白いです。
他の製作の作業工程の都合から、ちょっとこっちを弄ることにしました。
悩んだあげく、正面から除いて後ろまでスケスケというのが気になって、乗務員室仕切りを設けることにしました。面倒なことに非貫通側は全室運転台、貫通側は半室運転台のようです。RM LIBRARY 143 銚子電気鉄道(下)に掲載されていた小さな竣工図頼りにペーパーでちょこちょこっと。そしてそこまでやったら室内も塗っちゃえと言うことに。
塗料はタミヤカラーXF-59デザートイエロー、天井はXF-2フラットホワイトでちょこちょこっと手塗り。貫通側の側面は想像です。
全室運転台側はこんな感じで。ここまで終えたところで、仕切りの運転台背後って、ガラス窓だったのだろうか? 小田急の旧型車は板で客席からの眺望は不可能だったのですが・・・。ご存じの方いらっしゃったらご教示ください。窓塞ぎは容易ですので修正したく思います。
いや~それにしてもタミヤカラーは乾燥が遅い。それを良いことにまたしても暫く放置と決めました。
東武に嵌まっている訳にはいきません。ほどほどにして・・・としたら、
「ほどほどなどといわず、たまには東武にも嵌まってみてください。東急の電車だって撮れるし。」とのコメントをくださったのはモハメイドペーパーさま。はい、当然それも撮っておきました。
先ずお世話になったのは置き換えが始まったメトロ8000系。未だにピンと来ないのですが「急行 久喜」ですよ。
走り去る後ろ姿を撮っておきました。
第2世代の08系も活躍しています。「急行 南栗橋」随分と長距離を担っています。
東京メトロは、半蔵門線に加え、古くから日比谷線が直通しており、その車両は3000系から03系を経て、13000系になりました。
半蔵門線との直通運転で、東急の車両も頻繁にやって来るようになったのですね。未だに10両編成の5000系が東武線内を走ることに違和感を感じます。
加えて最新の2020系までも。
この時は、8500系を撮ることは出来ませんでしたが、半蔵門線を介して田園都市線とも直通したお陰で、3社のさまざまな電車が見られるのは楽しいですね。
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