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とある事情から1973(昭和48)年に入籍した天賞堂製EF62、久しぶりに走らせようとしたら走らない(涙)。
いろいろ調べてみた結果は、スパーギアの破損が原因でした。
スパーギア3段で、ギアボックス無いのウォームギア軸に伝導する構造の最上段のギア割れでした。
デルリン製のたったこれだけの割れでも、回らなくなるのが当たり前ですが不思議。
因みに画像内に記載していますが、歯数は20、外寸10.6㎜。
ギア厚みは3.0㎜、全長20㎜、2.4φの軸に嵌まっているものです。
これを知った古くからの友人YFさんが、ストックしていらした似たギアを送ってくださいましたので、早速軸から抜いてみました。
そして送られて来たベークライト製のギアに嵌め直しました。噛み合わせは良好です。
が、他にも原因があるらしく、上手く走れません。
原因はこのホイールギアにあるようでした。F型ながら駆動軸は4軸なのですが、その内の1軸だけ、どうやっても車輪が1開店するところで噛み合わせが悪く停止してしまいます。金属製ギアなので割れているようなことはないのですが、ギア割れと同じような症状です。
ここまで修復したのに残念ですが復帰できません。
ホイールギアの歯数は13、これが入手できれば・・・、と言うより圧入車輪なのでギア付き車輪が入手できさえすれば直るのですが・・・(涙)。
どなたかギアだけでもお譲り頂けたら、車輪抜いて嵌め直すのですが・・・。
このコロナ禍の影響もあり、展示施設の維持管理予算もなかなか厳しいことが伺えます。なかなか新しい車両の導入も叶わない中、小田急ロマンスカー7000形LSEは人気者です。
しかし、走らなくなったということで、引き込み線に押し込まれていました。現地でテストの結果はモーター回れど走らないということで我家で入院治療。動力車2両はユニバーサルジョイントの抜け。交換して問題なし。
ところが、輸送中に先頭台車から車輪が脱落。枕梁中心が下がり、台車枠が“ハの字”に広がっていたことが原因でした。
編成で4器のパンタグラフの内、3器が破損です。
その内の1器はパンタ台ごともぎ取られたように無残な姿。
もう1器はパンタグラフ本体がご覧の通りバラバラに。その上左向こうのパンタ台が外れています。
あ~あ、何と気の毒な。 面倒臭い作業ですが、食い入るように見つめる子供たちの輝く眼を楽しみに、なんとか修復することにしましょう。
自宅で“入院治療”となった2編成の内の一つの破損はこれです。脱線すると言うので現場で何度か試運転しても再発せず、原因が分かりませんでしたが・・・。模型を分解して漸く原因が判明しました。
この模型の動力はカツミが博物館仕様としているもの。Canon EN-22の回転をスパーギアで台車に降ろし、ウォームギアのギアボックス伝達する方式。ギアボックスは相当加工精度の高いものです。
この電動ユニットを、床板上の梁に止めるものです。
ところが・・・、
原因はセンターピンが外れていたことでしたが、この構造は床板に取り付ける枕梁(A)は、本来ギアボックス(B)の上にあるべきものですが、センターピンの雌ねじ部分が動力ユニットから外れていたのでした。
この補修はどうしたものか、本来はギアボックスにハンダ付けされていたようですが、完全にハンダで修復するのにはかなり無理がありそうです。ギアボックスの分解法が解らん。それに油まみれ。
仕方ないので綺麗に油分を拭き取って、エポキシで接着することにしました。果たして耐久度がどれくらいあるものか?
この修繕でダメなら、MPギア仕様に変更しましょうかね。
久しぶりに“お仕事”に出掛けました。
2セットあるNゲージのレイアウト、ここではジオラマと呼んでいますが、その1つには今、これが走っています。
2つめのはドッグボーン形のエンドレスを2つ折りにしたような配線で、一部高架線の都市型。今は東海道線233系を走らせています。
この2セットのNゲージレイアウト、お友だち二人の手も借りて、レールクリーナーで綺麗に拭いて、ハンディクリーナーで線路上の塵や木々のスポンジを吸引。合わせて車両も車輪清掃。これでまた暫く、調子良い状態が維持できます。
さらに、小田急2400形HE車のマスコンで操作できるHOゲージジオラマも、同様に3エンドレスを全てレールクリーナーで綺麗に拭き、ハンディクリーナーで線路上の塵などを清掃しました。
しかし、故障していた2編成はここでの修理はできず、別途我家に“入院治療”処置となりました。個人の大事な模型とは異なり、展示模型ならではの破損や故障も発生するものです。
友人ノッチさんから斯様なイベントがあることを知り、わざわざ出掛けるべきか悩みながらも、客車内に入れるということで出掛けることにしました。
ところが、なかなか手強い。簡単には行かせてくれません。この謎解きとかいうものにチャレンジしなければならず、あの東大出の柔らかい頭が必要です。謎1だって「テイキケン」と判明するのにかなり時間が要ったし、これ全部解くのにいったい何分必要なのか?
でもなんとかクリアして、1872(明治5)年10月14日、新橋からここ横浜(現・桜木町)に走った列車に。
1号機関車と呼ばれる機関車ですが、展示されているのは110。これは当時イギリスから輸入した10両の機関車の内の10号機で、後に110形とされたものです。
その当時の客車というのがこれ。レプリカではありますが、念願叶って車内に立ち入ることが許されました。他の見学者が居なくなるのを気長に待って撮れました。
天井照明はガス灯を模したLEDが、いかにも頼りなく、明るさ不安定な様子を再現していました。
だ~れも居なくなったところでこの一枚。
機関車にしっかり連結されて、桜木町に展示されています。
この客車の側面には良く判らない表示。しかし英語標記をみて解りました。二等車ですから上から2番目のクラスだったようです。
そうですよね、この背もたれの無いロングシート状の客席。
下等車だと前後方向に移動できない左右の側戸から乗降する向かい合わせ座席でしたからね。なんだかこんな模型もイイものだななどと・・・危ないアブナイ、明治の汽車に手を出したら大変大変。
国鉄の特急電車はやっぱり151系が頂点でしょうね。長らくその151系を入手できなかったので、特急列車が大衆化されて“エル特急”が全国を走るようになった時代、横軽を行く189系「あさま」を製作しました。
プレスボードで先頭上部はソフトメタル製のペーパーキット、いさみや製を使い1986(昭和61)年に製作、天賞堂のEL-1でタイフォンを鳴らせるよう、クハの床下には28φのスピーカーを搭載していますが、この日はそのEL-1が無いため雑音しか出ません。
151系と並べると国鉄特急電車の風格が感じられますが、残念ながら189系は最短編成の5両。実は友人から、モハ4両分のキットを寄贈されているので、それも製作して組み込まなければなりません。
なかなかやることが多くて大変ですが、そこはシニアの趣味。納期なんてありませんから気の向くまま、本命とか息抜きとか、時には浮気とか、好きなように取り組んでいくことに致しましょう。
友人宅での運転会とは言っても、所謂“運転を楽しむ”ものではなく、そこは気ままに広いエンドレスで走らせられるというだけのものなので、未公開の車両を持ち込みました。
それがこれ、少年時代に憧れていた151系特急電車。当時はカワイモデルと天賞堂からしか製品化されていませんでした。
天賞堂製は言うまでも無く手が届かない価格であったのに対し、カワイモデル製は少し安価。とは言えなかなかの値段で手が届かなかった憧れの存在でしたが、先日オークションで比較的安価に落札できてしまったので、今回はその状態確認という目的でした。
入手後ここまでにOER3001氏がやっていたことは、セレン整流器と電球類を全て取り除き、車輪とモータークリーニング。8両編成ですが、その内訳は2両ユニットのモハ、モロが揃っていない、モハシが無いなど不満がありましたが、欠けた車種は追加製作することになるのでしょうね。
とは言え古い製品を並べると、それだけで存在感があるようです。まあ追々、本命製作の合間を見て、本格的に走らせることができるように整備した後に、入籍させようと思います。
先のカツミ製EF60に続き、昭和の模型レストアに嵌まってしまったようです。
友人宅にお邪魔して、専用ルームに敷設された広~いエンドレスでの運転を楽しんで来ました。
第一弾は先日レストアして入籍となったEF60。ぶどう色2号の機関車には2軸貨車が似合います。折角なので少年時代から集めてきたつぼみやエンドウの貨車、自作のコンテナ車などに加えて近年のKATO製貨車も繋げて。
一通り動かして満足した後はEF15に機関車交換。独身時代の1976(昭和51)年に16,000円で購入した天賞堂製。この頃はまさに独身貴族。前年に購入したEF58は17,850円と、今から考えれば安いものと思いますが、相当な高級品でした。
大切な歴史ある機関車と並べて記念撮影。小田急好きのOER3001氏にだって、国鉄電機のコレクションもあるのです。
今、相模線100周年イベントが開催されていますが、全線電化となるのは1991(平成3)年のこと、今から30年前です。その歴史は今の相模鉄道の手により建設されつつも、複雑な経緯を経て国鉄線となりますが、電化はJRになってから。100年の歴史の7割は石炭や軽油などによる列車運行でした。
その非電化最後の鉄道記念日である1990(平成2)年10月14日、そう31年前の今日、二人の息子を連れて、橋本から茅ヶ崎への旅を楽しんでいました。
所謂“相模線色”になったキハ35系の2両または4両編成でした。
列車交換待ちの相武台下駅でのシーンですが、この時既に架線が張られていました。眠気を誘うディーゼルエンジンの音も懐かしく思い出します。
そして電化開業と同時に活躍を初めた205系500番台も、間もなく新鋭E-131系に置き換わろうとしています。
205系を撮っておかねばなりませんね。
前回の東京オリンピック“TOKYO 1964” の開会式は、忘れもしない10月10日。統計的に“天気の良い日”として決められたからでした。IOCが今のような商業主義ではなく、米国の都合に合わせる必要も無かったからこそで、前日までの雨が止み、青空にブルーインパルスが描いた5色の輪を見たものでした。
そんな1964(昭和39)年10月に、父が撮影していた写真の中から田端機関区を見付けました。EF80 34と読めるようです。
もう一枚はEB10の1号機、パンタはPS13ですね。
父は何をしていたのか、仕事では結構外回りをしていたようで、その途中で撮った東京のシーンが興味深いです。画像は何れもハーフサイズカメラによるもので、画像修正ソフトで加工しています。
立派な建物の中に保存されたC56 31号機を見てきました。
日頃はあまり近寄りがたいとは思わない靖国神社の中にある遊就館。1階入口部分だけは無料で見学できると聞き、出向いてみました。
ご存知のファンも多いことでしょうが、第二次世界大戦では90両のC56が南方に徴用されたそうで、この31号機は七尾機関区所属だったと。
あの泰緬鉄道の開通式に参加した機関車と紹介されています。
1977(昭和52)年までタイ国鉄で活躍した後、関係者の尽力によって1979(昭和54)年に「靖国神社に奉納された」と紹介されています。タイ国鉄時代の連結器と、なんだかよく判らない空気管が付いたままの姿です。
動輪周りは良く研かれていて今にも動き出せそうです。
「神社に奉納された機関車」ですから、なかなか理解しづらいこともありますが、鉄道ファンとして見学できることにはそれなりの価値があると思います。
説明パネルには美しそうな文章が記されていますが、全長415㎞の泰緬鉄道建設は1年3ヶ月という早さ。これに鉄道第5、第9聯隊を中心に、連合軍捕虜や現地住民など約17万人が従事したということを知ると、随分酷いこともしたのだろうと、心が痛みました。
保存機関車を見て、複雑な思いになり、次に向かった場所は「昭和館」でした。
1967(昭和42)年、技術出版株式会社が発行する「模型と工作」から、HOペーパー車体集なるものが発売されました。
最初は右側のもの、8月発行となっています。続いて11月に左側の特急シリーズが発行されています。価格は右側が550円、特急シリーズはビニールミラーコーティングによって光沢を出したからなのか、650円でした。
右を開けて見ると、見返しの広告が何と懐かしいことか。鉄道模型社とつぼみ堂模型店。
目次を拡大すると次の通り。各車とも形式図が添えられていて、大いに役立つものでした。
特急シリーズは全て竹村徹夫さんの設計と解説。「ペーパー車体用に特別抄紙したエクセルアイボリー紙使用」とうたっていますが、エクセルアイボリーは当時は興陽製紙が製造していたものですが、特別抄紙ということなどあり得ませんね。因みに興陽製紙は2012年に日本製紙クレシアに吸収合併、エクセルアイボリーというブランドも消滅となっています。
それでも良い紙であることは事実。OER3001氏はその後に、神保町の洋紙店でA-1判サイズのエクセルアイボリー紙100枚を購入しましたから。
よく考えてみれば、これを窓抜きして組み立てて完成等と言うことはあり得ず、最終的に塗装という工程を採らざるを得ないのですが、当時はこれで満足したものです。
とある事情から、出版社から贈呈されていた2冊づづがあるので、1冊は窓抜きしてみようか・・・などと考えたり。
小田急新宿駅は2層構造で、地上3線と地下2線。櫛形ホームそれぞれに番号が付けられているため、ホームは1~10番となっていることから混乱を避けるため、乗客案内における線路番号は「番」ではなく「号」と呼ばれます。
その1号線の車止め、53年前の1968(昭和43)年の姿を1番ホームから撮影していました。バラストが盛られただけのものでした。その前方、西口改札の右には乗り越し精算機と売店が。
53年経った今、当時は特急乗車ホームとされていた1番ホームは閉鎖されて立ち入ることができなくなってしまいました。前方にはロマンスカーのブランドカラーであるバーミリオンで纏められた“ロマンカフェカフェ”が設けられています。
そして車止めは、ドイツ・Rawie(ラヴィー)社製が、日本車輌製に代わって設置されています。
折に触れて、鉄道施設もこまめに記録しておくべきですね。
今では当たり前になった自動改札機ですが、京阪神急行電鉄(阪急)が1967(昭和42)年に北千里駅に立石電気(オムロン)製を設置したのが始まりのようです。
小田急では1970(昭和45)年7月から、玉川学園前駅での試用が始まりましたが、何れも磁気定期券専用でした。玉川学園の小・中・高校・大学生の定期乗車券利用が多かったことが、この駅で試用となったものと考えられます。残念ながらメーカーが何処だったのか、記憶にありません。
撮影日は判りませんが、16時17分過ぎを指しています。高価だったカラーポジフィルムで沿線のサクラを入れた撮影を終えてて帰宅する際、余ったフィルムで撮っていたようです。小田急の社史にも無い、貴重な記録になりました。
因みに、ありました。阪急北千里駅の自動改札機の画像が!
EXPO'70に行く序でに立ち寄っていました。
それにしても・・・、電車は撮ってもなかなかこんなもの撮っていませんよね。我ながら良く記録していたものだと自画自賛です。
“SWAROVSKI”(スワロフスキー)ってご存知でしたか? 鉄道模型を趣味とされる方々の殆どはご存じないものと思いますが、1895年にオーストリアのチロル地方で創業したクリスタルのプレミアムブランドなのです。「誰もが手にすることができるダイヤモンド」をポリシーに、高品質クリスタル、天然及び人工のジェム・ストーンやアクセサリー、照明などの製品のデザイン、製造、マーケティングを行っている企業とのことで、婦人服の装飾やアクセサリーに多く使われています。
手芸用品の「ユザワヤ」では、DIY用のパーツを取り揃えていますが、この10月1日以降は・・・、
『スワロフスキー社の自社ブランド(スワンマーク)のブランド価値の保護に重点を置くため、DIY(材料としての販売)、ネイル業界などを含む小売業界へのスワロフスキー・クリスタル製品を提供するビジネスから撤退することが決定、さらに2021年10月1日以降はスワロフスキー・クリスタルのブランドロゴ表記の使用も禁止となる。』
と発表されました。
たまたま10月2日に模型パーツにと「ユザワヤ」を探索していていて、在庫切れが多かった理由がわかった次第。左2点がそのスワロフスキー。
天賞堂他の昔の製品のライトに使われていた“人工ダイヤ ”です。右はスナップ、電気配線の接使用使おうと思って確保。
その昔は斯様なパーツを探すにも、女性しか居ない店舗に入りづらく、碍子に使う白いビーズなどはガールフレンドに頼んで買って貰ったことがありますが、「ユザワヤ」のような店舗のお陰で気軽に商品探索できるようになりました。最もシニアになれば恥ずかしくもなんともないですが。
と言うわけで、“人工ダイヤ ”の確保はお早めに!
OER3001氏が鉄道模型の世界に入ったのは、入学前の秋。風邪を引いたのか熱を出して寝ていた日の夜、父が買って来てくれた3線式Oゲージ、EB58と貨車1両、16本組だったか一回りの曲線と僅かな直線が始まりだったと記憶しています。
当時の“宝もの”は今も大切に、何処かに保管しているので何れご紹介したいとも思いますが・・・、小学校4年生の時に初めての自作に挑戦した頃、お小遣いでちょこちょこパーツを買い集めていた中に、斯様な台車がありました。
何を夢見て、どこで買ったものなのか、すっかり記憶は無くなっています。
ベッテンドルフのようなカタチですが、枕梁は枕バネ部から3ミリネジとナットで止めてあるものです。
車輪は、車軸内部の金属棒に、左右から車軸と車輪が一体になったプラ車輪が押し込まれたもの。フランジ形状も玩具のような形状です。車輪が綺麗に清掃できましたが、台車枠の塗装剥離は諦めました。
幸いなことに1両分は揃うのですが、あと数量分どこかで入手したくなってきました。何を考えているのですかね。
東京都に生まれ育ったOER3001氏にとってこの日は、“都民の日”として特別な想い出がある一日です。
学校は休みで、“カッパのバッチ”を付けていれば、都が管理する動物園や博物館などの入場が無料に、そして都電、都バス、トロリーバスも無料というものでしたが・・・、その都電は1967(昭和42)年12月9日をもって専用軌道の荒川線以外の路面走行は終了となってしまいました。廃止が始まり、最終的に1972(昭和47)年11月、ほぼ専用軌道の荒川線以外の系統が全廃となります。
そんな10月1日という日に、OER3001氏はどんな記録を残していたかと言えば・・・、それがなかなか見つからないものですね。先ずは昨年2020年は・・・、
武蔵新田でこんなのを撮っていました。この地に開店したアンティークショップ、と言うより中古品を集めた模型店に行ったのでした。
そこで入手したのがこの台車2両分。1両分770円のお買い物でしたが、これはまだ使っていません。
その前年2019年、2018年は、10月1日の記録はありませんでしたが、2017年には西大井-大崎間の湘南新宿ラインで。その昔、蛇窪信号所とされていた所が、今は大動脈になっています。愛孫達を遊ばせるために訪れたしながわ中央公園、暫し離れての一コマでした。
さらに前年の2016年はここ、東武日光で。この日は高校時代からの♀友人と元職場の♀友人との3人で、浅草からスペーシア個室の旅での一コマでした。
その前年2015年は、9月30日をもって完全に退職した翌日でした。小田急多摩センターで電車待ちの8:35、反対側に来た列車を撮っていましたが、この日いったい何処に出掛けたのか、残念ながら記録がありません(涙)。この画像、良く見れば今は無き1000形ワイドドア編成の1253Fではありませんか。
こうしてみると10月1日という日は、それほど記録されていないことに気付きます。何気ない日常でも、後世には貴重な記録となることもあり、ましてデジタルカメラやスマホの時代。コマ目に撮っておくことの大切さに気付かされた次第です。
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