« 2021年11月 | トップページ | 2022年1月 »
今日のロマンスカー車両最新形の70000形GSEデビューと引き換えに引退して行ったのが、4桁形式最後の7000形LSEでした。
OER3001氏が初めて7000形LSEを見たのは1980(昭和55)年12月4日のこと。東海道本線湯河原駅のホームの先で、EF58 94号機に牽かれてた第1編成の甲種輸送を迎えに行きました。
ダダダダダダダダダダ、ダンダン、ダダン、ダダン、 ダダン、 ダダン、 ダダン、 ダダン、 ダダン、 ダダン、 ダダン、 ダダン、 ダダン、 ダダン、ダンダン。これが通過音でした。
殿は車掌車 ヨ13767でした。
翌年春から運用に就き、折しもサクラが咲くシーズンには沿線撮影に通ったものです。
同年、鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞。授賞式が行われた9月13日から3日間は、前面にその装飾が施されて運転されました。
1982(昭和57)年12月には国鉄に貸し出され、3000形SE車以来となる試験運転が実施されています。
登場から15年程度経つと更新修繕が実施され、10000形HiSEに似せたカラーリングに変更されたのも想い出となりました。
4編成造られた7000形LSEは、2010(平成22)年から廃車が始まり、2018(平成30)年7月10日をもって定期運用を終了。最終運行の上り“はこね”の運転室には花束が!
その後いくつかの臨時運行を経て、10月に完全引退、廃車されましたが幸いにも、7003がロマンスカーミュージアムのメイン「ロマンスカーギャラリー」に保存展示されました。
誕生から38年の活躍は、ロマンスカー車両中では最も長寿だった車両です。
ロマンスカー車両の形式が5桁になったのは、1987(昭和62)年の年末から運行を開始した10000形、ハイデッカー車となったことからHiSEと名付けられました。
OER3001氏は運行開始2日目の12月24日に乗車することができました。床下もピカピカで新車の香りプンプンは良いものでした。
翌年1月には第2編成も就役し、フル稼働となりました。
この年の鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞、その祝賀列車は、普段は各駅停車専用の地下ホームからの発車となったことも記憶に残ります。
祝賀列車は小田急多摩センターに向かい、ここでの授賞式となったのでした。
フラッグシップとなった10000形HiSEにはサクラがお似合いでした。
1989(平成元)年までに4編成が揃いましたが、その勇姿を玉川学園前や相武台前で撮っていたものです。
しかし、ハイデッカーであることが、2000(平成12)年制定の交通バリアフリー法への対応が困難になり、2005(平成17)年から徐々に運用から外され、2012(平成24)年3月をもって定期運行は終了しました。
長野電鉄に無償譲渡された2編成が、4両編成への短縮改造の後2006(平成18)年には「ゆけむり」として信濃路で活躍しています。
志賀高原の山々を背景に、夜間瀬川を渡る姿を撮ることができたのは2016(平成28)年のことでした。
小田急線内で最後まで活躍した10001編成の10001は、海老名のロマンスカーミュージアムで後輩のSSE、NSEたちと、ゆっくり流れる時を過ごしています。
小田急線内で24年を過ごせたHiSEに比し、17年ということになる50000形VSEの活躍はあまりにも短すぎる。これを残念がる人々はきっとたくさんいることでしょうね。
30000形EXEの前に登場していたのが20000形RSE。小田急ロマンスカーと言えば、3000形SE車以来連接構造だったのが、相互直通の相手に合わせることからボギー車となりましたが、そもそもこれが50000形VSE引退に繋がる道を付けたことになるのでしょうか。
新宿~沼津間の「あさぎり」として、1991(平成3)年3月16日から運行開始しました。
翌1992(平成4)年6月には、「相互直通運転車両の規格仕様に関する協定書」に基づいた設計で作られたJR東海の371系が定期検査に入ったとき、その代行を20000形RSEが務めたことから、谷峨駅での交換も見られました。
この年の鉄道友の会「ブルーリボン賞」に選定され、ヘッドマークには「祝/BR賞」が交互表示されました。
その20000形RSEも2013(平成25)年に引退、22年間の活躍でした。
一部車両が海老名のロマンスカーミュージアムで保存展示されているほか、富士急行に譲渡され8000系として活躍していることはご承知の通りです。
22年間の活躍でも短いと思っていたのに、50000形VSEは僅か17年間で第一線を退くことになろうとは。なんとも悲しいことではありませんか。
1996(平成8)年登場の30000形EXEは、“ロマンスカー”を名乗る車両群の中ではリニューアルされたEXE-αとともに最大量数を誇りますが・・・
“ロマンスカー”車両の歴史上で、鉄道友の会ブルーリボン賞の受賞を逃した唯一の形式です。
50000形VSEを先に引退させるという小田急のブランド戦略、どうしても理解できないのはOER3001氏だけでしょうか。OER3001氏は、30000形EXEは、特急車両ではあっても“ロマンスカー”ではないと理解しています。“ロマンスカー”を名乗るなら、乗りたくなるワクワク感を醸し出すことが必須と考えます。
しかし・・・、「新宿からわくわくして箱根を目指す」こと自体が夢でなくなってしまった今は、特急料金を取る列車を沿線主要駅に停車させることで、多様なニーズに対応することが優先するようです。だから、車体傾斜装置などの高速対応仕様はもはや無用なのですね。
1961(昭和36)年12月23日、その日は土曜日だったようです。
それまでは3線式Oゲージで遊んでいましたが、線路が3本と言うことが気に入らず、精密で大人が楽しむように思っていた“HOゲージ”に移行したく思っていた小学校5年生・11歳の時、父と神田・須田町のカワイモデルを訪れ、木製道床28吋曲線1組と直線2本、パワーパックとモハ152を買って貰ったのが、OER3001氏が16番ゲージを楽しむようになった始まりでした。
確かモハ152完成品が1,950円、パワーパックも同じ価格だったと記憶しています。線路は1本100円だったか150円だったか? 従ってこの当時、7,000~8,000円で16番ゲージの1ページを開けたようです。
それから本年がちょうど60年ということで、記念列車を仕立ててみました。
小高模型のプレスボード製キットが発売される以前には、メーカーは判りませんが白ボールのような紙のペーパーキットが100円か200円程度で売られていて、それを組み立てたクハを連結して漸く編成にしたものでした。
その後、カワイモデル製未塗装車体のクハ153を入手。同様にモハ153の車体、クハ153-500の車体、さらにモハ152,153の1ユニット、サロ152の未塗装車体を買い増しし、ハンドスプレーで塗装して7両編成として揃ったのが1968(昭和43)年のこと。実に、毎年1両づつ増やしていったという、まさに歴史物です。
だいぶ疲労感漂いますが、久しぶりに走らせようと、先の運転会場で組成したものの、サロ(165)の台車がポイントで脱線しやすく、本線への出場は断念しました。
この際、全車レストアして蘇られてみましょうかね。想い出いっぱいの車両なので手放せませんから。
前日の雨が上がり好天となったこの日、相鉄線に出掛けてみました。昼前後の光線状態ではこの場所が良さそうです。
先ずは10000系から。
10000系は2002(平成14)年の登場で、この時は試乗会で厚木に行っていましたが、小雨降る寒い日でした。
その第1編成が、今は前照灯位置を変更するなどして、ネイビーブルーの姿に生まれ変わっています。
続いて2009(平成21)年から登場した11000系、まだネイビーブルーへの改装編成は未登場でしょうか。
2014(平成26)年以降1編成が、相鉄マスコットキャラクター「そうにゃん」をあしらったラッピング車両
「そうにゃんトレイン」としてラ運行されていますが、今は11004×10が充当されているようです。
小田急ロマンスカー3000形SE車のように、正面中央に前照灯2灯を並べた9000系ですが・・・、
更新工事を受けてすっかり見違えるようになりました。OER3001氏は結構気に入っています。
ヨコハマネイビーブルーで登場している新型車両もだいぶ多くなってきました。
JR線直通用に用意された12000系は、広幅車体と言うこともあって貫禄があります。
それに比して、東急線直通用に用意されている方は、スリムです。正面に非常用扉を設けたことで、12000系のようなゆったり感が失われたようです。その上正面の車番小さく、判読しづらいです。
ここで1時間弱を過ごしたでしょうか。願わくば、JRから乗り入れてくる車両も含め、全形式を撮ることが出来る西谷~二俣川間で撮影したいのですが、路線形状と光線状態から思うように撮れません。
1969(昭和41)年には西谷で横浜に向かう5000系を撮っていたのですが。
今はこの両側にJR直通線が設けられ、果たしてどんな写真が撮れるか・・・? 次回試してみようと思っています。
登場から20年も経っていないのに、50000形VSEが来春、定期運行を終えるとのニュースにはショックです。
一方で、一般車両もまだ新しいと思っていた“美人”の1000形に廃車発生、入れ替わるように5000形が増備されています。この日、その最新編成の5059Fに遭遇しました。
対向ホームに停車した5059、まだ床下もピカピカ。新車の香りが漂います。
それにしてもこのフロント、凹凸が無い、単純なようで複雑な曲面の組み合わせは、模型製作には悩まされますね。
連結器周りを良く見れば、胴受け形状も独特。連結器は取付位置より首が上がっているのですね。この連結器、非常時以外の連結を考慮していないようで、空気管はありません。空気管は胴受け横に顔を出しています。
2年ぶりの運転会ということで、OER3001氏もその間に完成させた車両を中心に持ち込んだのですが、残念ながらその全てを撮影できていませんでした。
ヤフオクで落札し再生したEF60、お仲間のEF66、EF65 1000と並ばせて頂きました。
本線の踏切モジュールはM川氏作。列車走行中は絶対に鳴り止まぬ、というより終日鳴り続ける警報器。A野氏の233横浜線が通過して行きました。
どさくさに紛れて、OER3001氏のプライベートカー、スイス風2021も走行させて頂くと、室内の乗客が来場者の視線を惹いていました。
ということで、2年ぶりの運転会模様はこれで終えることと致します。今度の運転会はいつ実現できるかなぁ?
151系電車が1959(昭和34)年7月31日に行われた高速度試験で、時速163km/h の狭軌鉄道世界最高速度を記録したことは有名だが、その礎になったのが小田急3000形SE車。国鉄で行われた高速度試験で、その2年前の1957(昭和32)年9月27日に145km/h の狭軌鉄道世界最高速度を記録している。
151系を走らせたら、OER3001氏としては3000形SE車を走らせなければなりません。
高速電車が続々と登場した当時、小学生低学年だったOER3001氏はわくわくしていたものでした。その当時の夢が、手元で開花しました。
三木のキットを組み、動力は先頭車両にLN-12形モーターを仕込み、先頭車連結面からミュージックホーンを鳴らして快走してくれます。小さな子をお連れのママ、カメラを向けられていらっしゃいました。
連節車のジョイント音は誠に軽やか、タタン、タタン、タタン・・・って。
広~い会場を、気持ち良く走ってくれました。
今回の運転会では、OER3001氏が小学生時代に憧れの特急列車だった、151系「こだま」をデビューさせました。新幹線がまだ無かった時代、こだま型特急電車には特別の存在感があったものです。
1960(昭和35)年6月から1961(昭和36)年9月まで運転されていた12両編成。当時欲しかったもののとても買えない高級品。この度縁あって、綺麗な姿のままのコレクションを譲り受けることが出来ました。
12両編成など、自宅では満足な試運転も出来ませんが、クロ151を先頭に、広い会場を快走してくれました。
L3モーターに17:2ウォームギアとインサイドギアの、昭和の懐かしい動力車は編成中3両。
遜色ない走りを披露してくれました。
無事に引き上げ線に収まってこの日の任務終了!
カワイモデル製151系完成車の特徴は、側窓断面が実車のパテ如く、灰色に塗装されていることです。塗装後の車体に、室内側から塗料を吹き付けるという神業は、宮坂さんとか仰った職人さんによるものだと思います。大切なコレクションに加わりました。
長引くコロナ禍で、軒並み中止されていた運転会。オミクロン株の動向が心配ですが、先ずは新規感染者数の低い状態が維持されていることから、およそ2年ぶりでOER3001氏らのクラブで運転会が実現しました。
会場は横浜市、野毛地区センターまつりへのご協力というかたちでの実現です。2021-12-1.jpg (793×1029) (nogechikusen.com)
ステージでは館長のご挨拶に続き、演奏や舞踏などのプログラムが終日繰り広げられますが、運転会は画像左手の集会室です。
会場には16番ゲージ複線のレイアウトに加えて、左手にはNゲージの体験運転コーナーも設けられました。
運転会の模様はモハメイドペーパーさまからいち早く報告されてしまいましたが、OER3001氏からはちょっと変った内容で。
見慣れない列車が走り回っています。
先頭の蒸気機関車はB20形ですね。続くオープンデッキの客車側面には装飾が。
客車に続く貨車には動物たちが乗っていますが、これが来場の子どもたちの目を引きます。
客車の装飾は、「祝 第38回センターまつり 横浜市交通局100周年」でした。
横浜市電も、同様に装飾されていました。
動物たちは近くの野毛山動物園をイメージしてでした。シンボルのさるに続いてトラ、サイ、ライオン、アルパカ、ヒツジなどが、トラならぬトムに乗っています。
スケール車両たちが走る合間に、時折登場させたこの列車、結構人気がありました。
手指消毒と検温に加え、集会室入口で番号入り入場券の発行など、会場内で“密”にならないように工夫しての運営です。集会室の窓は全て開け、換気にも務めましたが、この日は外気温も暖かくて救われました。
それだけに親子でゆっくり見ることができたようです。
今回の運転会、子供たちの目を目を釘付けにすることができて、嬉しく思います。
2021年も暮れになってやっと実現した、今年最初の運転会。来年は複数回開催できることを願うしかありません。
比較的穏やかで暖かなこの日、所用で都内を歩き回りましたが、秋葉原から池袋に向かう途中、ここでちょっと撮影を楽しみました。
通りがかった折に急に現れたのを狙った上の画像、JR総武線がチラッと見えますが、ちゃんとJR車との撮影を期待して、次を待ちました。
が、残念なことに次はJRが全く居ません。
東京行き中央線が走り去るこの時、丸ノ内線が顔出してくれていれば良かったのですが。
丸ノ内線が出て来たときには、中央線も総武線も居ません。
残り少なくなった02系、しかも方南町行きの姿が収められたので良しとしましょう。
絵本のように、昌平橋を越える総武線、その下を行く中央線と、赤い丸ノ内線全てが撮れる時は・・・、なかなかそれを狙ってここに長居する熱意もありません。
とは言っても、現在のではなく昭和も戦後間もなくの黄色と青の時代。1999(平成11)年9月に北茨城市の民宿で開催された運転会で、斯様な集合写真を撮っていました。
一番奥が、1950(昭和25)年に小田原から3線軌条にして箱根湯本に乗り入れた最初のロマンスカー1900形。手前が1952(昭和27)年に増備された1700形。中央が1955(昭和30)年登場の2300形。
当然ながら全てペーパー自作。1700形と2300形にはスピーカー搭載で、実車ではあり得ないミュージックホーンも鳴らせます。
黄色/青のロマンスカーは、全形式を製作済ですが、正面貫通の1700形も欲しくなりましたが、いろいろとやることが多くてとても手が回りません。
「湘南・日光」特別列車は15:23に伊豆急下田駅を発車、先頭のクモハ8252車掌台側の窓にはカメラが取り付けられ、伊東までの前面展望の撮影です。
そんなことにはお構いなく、OER3001氏らはやっと車窓を愛でつつのビールです。
稲梓で踊り子と交換です。
稲取駅に停車したとき、プラットホームに毎日放送(MBSテレビ)制作のバラエティ番組「プレバト」で見た作品を見つけました。誰が見ても研ナオコだと判る「伊豆のスター」は千原ジュニア作。研ナオコは伊豆湯ヶ島の出身だったのですね。
隣は、光宗 薫作の「イナキンとハマダイちゃん」。唇が!
さらにその横にはKis-My-Ft2千賀健永作 「Love Izu You」が。
停車時間にちょっぴり芸術に触れていたら、下り電車が到着。直ぐに側扉が閉まって発車です。
稲梓から片瀬白田にかけて、トンネルを抜けると撮影地が続きます。
相模湾に沿って走るこの場所、100系が活躍していた時代にゴロゴロした海辺を歩いて撮影していたものです。
「湘南・日光」特別列車は崖に沿って快調に走ります。
崖が終わって左手に道路が見えてくれば、この先は片瀬白田駅。
そうそう、ここですよ、この場所。1998(平成10)年8月11日、リゾート21を撮っています。
と、陽が短くなった車窓を楽しんでいたら・・・、
「湘南・日光」特別列車は伊東に着いてしまいました。
東横線での現役時代を思い出すステンレス、いつまでも輝いて欲しいですね。
今回、この企画を立て、お誘い頂いたK-Lowさん、素晴らしい想い出が得られました。本当にお疲れ様、そしてありがとうございました。
団体列車「湘南・日光」特別列車の旅、下田到着後は留置線への入れ替えを待って、撮影会です。参加者僅か25人ということで、落ち着いた環境でゆっくり撮影できました。
その後が思い思いのフリータイム、金目鯛の寿司を食べに向かった人、温泉に向かった人などさまざま。
OER3001氏らは港に面したテラスで弁当を食べた後は、駅近くでの撮影としました。幸運にも最初はサフィール踊り子の到着を。
駅先の稲生沢川橋梁で上り踊り子を。
続いてリゾート21「Izukyu KINME Train」。
だんだん陽が傾いて来る中、主力8000系の各停を。
ここでの最後はサフィール踊り子の側面を狙ってみました。
集合時刻に駅へ向かうと、OER3001氏が大嫌いなあのデザイナーの手による青いやつ、「THE ROYAL EXPRESS」が入線して来ました。
折角なので一応、人影の無いホームから、編成全景を収めておきました。
留置線では8000系と踊り子に挟まれて、「湘南・日光」特別列車が入れ替えを待っていました。
この後の入れ替えを待って、団体列車「湘南・日光」特別列車に乗り込むこととなります。
団体列車「湘南・日光」特別列車の旅はここから始まりました。伊豆高原駅改札外で、企画のK-Lowさまが自ら受け付けです。
参加費と引き換えで首掛けの乗車証と、お弁当、お茶とお土産一式に加えて、企画者手製の乗車記念兼2種を受け取ります。
お弁当の包装紙も特別デザインです。
特別列車は既に1番ホームに停車中。ゆっくり外観撮影してから乗り込みます。
トイレもあるのでビールを飲んでも不安はありません。
1号車から2号車に渡ろうとして気付いたのが、この細やかな工作です。元々の渡り板左右に、わざわざ別板を溶接し、台形の角度を鋭角から鈍角に改良しています。
海側座席は西武10000系から発生のクロスシートとしていますが・・・、
これがドア間に2組のボックス席とする都合から、楔を噛ませて5度前傾で設置されているため、座り心地がイマイチ。
山側のロングシートの方が、足を投げ出して海を眺められます。
天井には4枚羽の東芝扇風機が健在。Toshibaのロゴも懐かしい。
参加者数25名では、 自然に話の通じる仲間達が3両に分散。各車両とも極めてゆとりある車内です。やがて、幹事がビールを配りに来てくれました。が、OER3001氏らは往路では缶を開けませんでした。
海側の窓ガラスに、伊豆急のホスピタリテーを感じました。沿線から見える島々を案内するシールが貼られているではありませんか!
お陰様で天気に恵まれました。片瀬白田を出ると、一気に視界が開けます。画面左は伊豆大島。右の尖っているのが利島のようです。
ズームアップしてみたら、利島の右に鵜渡根島、さらに右手が三宅島であることが解りました。
海を見つつ、トンネルを抜け・・・と、130Kwの直流複巻整流子電動機音に酔いしれていたら、間もなく終着駅・伊豆急下田。
ここで撮影会含む約3時間を過ごすこととなりました。
5200系、6000系、7000系と、ステンレス製車両を増備して来た東京急行電鉄(東急)が、時代の要請から20メートル車体としたのが8000系。そこには運転台の大革命が起こりました。我が国初のワンハンドルマスコン導入でした。
1970(昭和45)年当時のパンフレット表紙が、その意気込みを伝えています。
パンフレットを開くと、Tc-M1-M2-M1-Tc2の5両編成として形式図が。床下機器配置もあって、模型製作には助かる図面です。
続いて主要諸元の一覧。
車内も、経済性を重視していた当時の簡素な様子です。
模型ファンに有効な台車も図面もあって嬉しいものです。
A4版全38ページにわたるパンフレットは、大切な資料として保管してきました。
続いて車両冷房化の時代要請に応えるために、翌年には冷房搭載編成が登場します。この時制作されたのはA3見開きのリーフレットでした。
それを複製し、今般の伊豆急行開業60周年、日光モデル創業55周年を記念した団体列車「湘南・日光」参加者に配られました。
オリジナル版とは折加工に違いがありますが、内容的には遜色ない仕上げリです。
パンフレット最後には東急車輌製造と。
一時代を牽引してきたことは間違いない8000系も、伊豆急ではJR209系を導入準備中。消えて行く前にしっかり記録し、記憶に留めておきたいものです。
とは言っても、8000系を東急線内で楽しむことは出来ません。
今回は親友のご子息が企画されたお陰で、伊豆急線内での貸切列車に乗車することが出来ました。伊豆急行開業60周年と、日光モデル創業55周年を記念しての団体列車「湘南・日光」のヘッドマークを掲げた特別列車でした。
ヘッドマークは文字通りアタマだけで後部にはありません。後部は8000系登場時のステンレス無装飾時代を彷彿させる出で立ちです。
記念列車は伊豆高原発下田行き。下田での折り返し時間を使って、引き上げ線での撮影タイムが設けられました。
勿論、企画担当のご子息もこの通り。自ら企画し、自ら制作したヘッドマークを掲げた勇姿をカメラに収めます。
この詳細は別途ご紹介させていただくことといたしますが、全てを取り仕切り頂きましたK-Lowさま、本当にお疲れ様、そしてありがとうございました。心温まるホスピタリティ-に感謝いたします。
昨日の「東急8500系の想い出」から遡ること6年、今回は8000系に思いを馳せます。
渋谷駅1番ホームに入線した「試運転」列車は、8000系初の冷房車。鉄道友の会の団体列車でした。
渋谷から元住吉までの試乗と、元住吉検車区内での見学・撮影会。実用的な8000系への冷房搭載は、風洞などの手間、工費を節約し、ユニットクーラーからの冷風は扇風機で拡散する方式が採られました。
中間電動車の台車は一般的なペデスタルタイプでしたが、先頭制御車には簡単な構造のPⅢ-708形が採用され、その簡素な外観に驚いたものです。
実用性と経済性を重視した8000系、地下鉄線仕様にマイナーチェンジされた8500系が、地方私鉄や海外で活躍するようになることなど、想像もしていなかったものです。
着々とその数を減らしている東急8500系ですが、そもそもは渋谷ー二子玉川園間(現二子玉川)の新玉川線(田園都市線)への導入を目的に、地下線火災対策基準「A-A基準」を満たして登場した車両でした。
新玉川線開業時の二子玉川園は、現在大井町線のホームとなっている所が、新玉川線ホームで、急勾配を上がって来てホーム直前で一旦単線となりホームに到着するという、独特の配線だったことが印象的です。
当時は営団半蔵門線は未開通で、行先は「渋谷」でした。編成も6両、屋根上にクーラーが載っているように見えても、全て“冷房準備車”、地下線内はトンネル内温度上昇を控えるために、冷房使用は停止されていた時代です。
1980年(昭和55年)の南町田(南町田グランベリーパーク)駅での一コマ。この時の行先は永田町。田園都市線はつきみ野までしか開業していません。
文字通り田園都市の発展を支えてきた8500系も、東急の線路から見られなくなる日も近くなりました。
京王線の検測車DAXは、黄色い塗装のデヤ900に挟まれて走行します。そのため小田急のテクノインスペクターのように、先頭に出ることが無いのが寂しいです。2日続きで全線走行するので、好天に恵まれた2日目も出撃してきました。
2日目は競馬場線を2往復するのを狙います。最初は高幡不動から来たのを東府中の踏切で。側面のラッピングの色がだいぶ褪せています。
東府中から府中競馬場正門前に向かう列車は、逆光のうえにビルの陰と、まことに撮りづらい。
順光になるのは上り、東府中に向かう時ですが、顔には陽が当たりません。
再度の下りは、武蔵国府八幡宮の陰に入ったところを狙うしかありませんでした。
2往復目の上りもほぼ同じ場所で。
で、今回気付いたこと。
「回送」とか「試運転」の列車種別表示は全く意味のないもの。即ち、上り方デヤ901は「回送」、下り方デヤ902は「試運転」表示で、列車の前後で異なる表示だったと言うこと。小田急はしっかり「検測」と表示しているのに対し、京王さんは結構いい加減ですね。
前夜から朝方までの結構な量の雨もあがり、日射しも確認できたことから急遽、カメラを持って出撃となりました。久しぶりに京王のDAXを追うこととしました。先ずは笹塚で、新宿へ向かう姿を収めます。種別が「回送」となっています。
このまま笹塚で、折り返しを狙う予定でしたが、同業者が数名居たので止め。京王永山へ向かいました。今度は「試運転」となっています。
京王永山としたのは、京王多摩センターからの折り返しを狙うためでした。今度は「回送」。
DAXは若葉台で一旦入庫の後、橋本に向かいます。これを京王堀之内で待ち構えました。「試運転」表示です。
橋本から戻る列車を狙うために京王堀之内としましたが、幸運にもここはOER3001氏1名だけ。今度は「回送」、ゆっくり撮ることが出来ました。
冬の日差しは低く、15時を過ぎると逆光で撮るのはしんどい。これで早々と切り上げました。
電車を模した飲料自販機について触れましたが、何と郵便ポストにも有るようです。
古くはこれ、品川駅ナカの設けられたポストがクモユニ擬きになったのはいつだったでしょうか。画像は2005(平成17)年12月にガラケーで撮ったものなので画素数も粗くお見苦しいですがご参考まで。
新京成の自販機画像と共に、八千代運転所さまが斯様なものを送ってくださりました。ポストの側面が電車の正面になっています。
品川駅のように線路と車輪は有りませんが、反対側も顔。形式、自重等の標記はありません。側面に描かれた窓には格子が描かれている拘りようです。
この洒落た郵便ポストはここ、郵便局が同居するJR江美江見駅の駅前に設置されているとのことです。
見ていて実に楽しいですが、この土地の方で無い人が、郵便物を投函しようとするとき、果たしてここにポストが有るよと知らせることが出来るでしょうか?
以前、銀座通りの郵便ポストが、こんな色に塗られていたことがありました。
景観を重んじてのことからだと思われますが、どうだったのでしょう? OER3001氏としてはユニバーサルデザインの視点から、郵便ポストはアカであるべきと思っています。
最近のコメント