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2022年4月 4日 (月)

今日の一枚 No.142

この顔が出たときは衝撃でした、帝都高速度交通営団6000系。小田急との相互直通運転が開始された1978(昭和53)年、玉川学園前駅で。

19780408_051513_n13

恐らくサンフランシスコのBARTの影響を受けたデザインだったのでしょうが、そのBARTを初めて見たのは1983年秋のこと。

19831000in000151brat13

初めてのアメリカ出張の時、路面電車(MUNI)LRTの車庫があるバルボアパークまで利用しました。当然ながらアメリカの鉄道は右側通行なので、営団6000系とは運転台位置が左右反対。

 

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コメント

冷静に見れば衝撃的なのは前面だけで(技術面は別として)、乗ってみれば前は見えない、窓が小さくて閉塞感が強く、当初は冷房もなくて暑い。小田急利用者からはボロクソで、監獄電車なんていわれました。

6000系も過去帳入となってしまいましたね。BARTは会社の企業訪問時に、自由時間の時に乗りに行きました。
丁度ハロウインの時で、乗務員がコスチュウム姿で乗務していました。
行き先は、MUNIの車庫のあるバルボアパークまでです。(OER3001氏にご教授を頂いたのですよね。)

BARTの姿を雑誌(「太陽」だったかな?)で見たときには体に衝撃が走りました。勢いで、それ風のHO模型を作ってしまったことを思い出しました。サンフランシスコには何回か行ったのですが、一度も見に行けなかったのには悔いが残ります。

サイリスタ(電機子)チョッパ制御による回生ブレーキというのを日本で最初に実用化した(阪神の方が少し早かったか)で当時のキャッチフレーズ?が「21世紀の電車」でした。小田急乗り入れ当初これが「準急本厚木」でしたから小田急沿線の苦情も理解できます。逆に営団に乗り入れた小田急9000は地下鉄で冷房を止めさせられていました。当時営団は冷房は駅冷房、トンネル冷房という方針で、途中から車両冷房に切り替えましたが、相互乗り入れで地上区間を地下鉄車両が長時間走るようになっても車両冷房にはなかなか踏み切りませんでした。
小田急線には入らなかったが当時の千代田線用の国鉄車両は非冷房かつ抵抗制御の103系でしたから「灼熱地獄」でした。私は一時東西線で通勤していたので酷い目に遭いました。

◆ モハメイドペーパー さま
メカは別として、新鮮だったのは「顔」だけでしたね。側窓は天地が小さく、地下線内では気にならなくても地上に出た途端に採光の悪さが気になりました。後期増備車の下降窓になってやっと改善されましたね。


◆ 八千代運転所 さま
乗務員がコスチュウム姿で乗務なんて、驚きますね。乗務員で無い輩が悪戯できてしまうのではと心配になります。


◆ ぼっちぼち さま
サンフランシスコに何度も行きながら、BARTを一度も見ていないとは!
誰もが行くはずのマーケットストリートの地下に駅があったし、仕事(?)後の夜だって見られたのにね。


◆ 所長失格 さま
仰る通り、営団の車両冷房化は相当遅れていましたね。思い出したくない夏でした。今では信じられないことでぅ。

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