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昔の「模型と工作」誌の記事のようなタイトルですが、最近は半導体の効果か、VVVFインバータ装置も斯様な小さな姿になりました。抵抗制御車の断流器のようです。
もちろん斯様なパーツの市販品はありません。無い物は作る! これが自作の醍醐味とは言え、電動車両の全てに搭載されるので、必要数は車両数となってしまいます。
最大の課題はメッシュをどうするか? 先日のお買い物で得たハセガワのモデリングメッシュなる素材を使います。方眼紙上にマスキングテープで留め、方眼の眼を頼りに所定寸法にカットします。
今回は7㎜幅にカットしました。
これを再び方眼紙をガイドにし、所定寸法の箇所をステンレス定規で押さえ、カッターの刃を使ってグイッと折り曲げます。
さらに、同様に2箇所目を折り曲げます。
曲げ加工3回で、斯様なカタチが切り出せました。
この作業を必要回行いますが、眼はチカチカし、なかなか集中を保つのに苦労します。
本来はこの側面もメッシュなのですがペーパー片としてしまい、角材とペーパー片から作った「ハコ」に接着しました。
サフェーサーをかけて、ハイ出来上がり。奥行きが薄い方はMPギア仕様の動力車のもの。中央のモーターを避ける必要がありますから。
と、かなりやっかいなものでしたが、塗装してしまえば粗は然程目立たないかと。走らせてしまえば更にわかりませんから。
デジタルではなく、高価なリバーサルフィルムを購入して撮っていた時代。それなのに現像があがってみれば、露出失敗のとんでもない写真!
落胆したものですが、フィルムのデジタル化を進めたとき、悩みながらも一応廃棄せずに取っておいた一部を、画像ソフトで補正してみました。
1981(昭和56)年3月、京王永山-若葉台間の電車見橋から。2010系4連+2000系2連の、外観が揃った6連です。
同じ時、電車見橋の東側に移動して撮っていた6739×8は、快速・岩本町行きです。
まだステンレス車体の7000系も登場しておらず、グリーンの車両も6000系も大活躍だった時代。40年経った今では、電車見橋にも高いフェンスが設けられてしまい、撮影にも制約ができ、付近にはビルが建ち、景色が様変わりしてしまいました。
弊社に2台の天賞堂製0-6-0タンク機関車が揃ったことから、あらためて調べてみました。
先ずは「8号機」となった製品、前・後部とも端梁にステップが付いていて、動輪のバランスウエイトは「三日月」形。サイドタンクは水槽だと思われますが、前後2カ所に取水口の「丸い帽子」があります。
対して「7号機」ですが、前・後部とも端梁にはステップは無く、バッファーが付いたカタチです。そして動輪のバランスウエイトは「扇形」形になっていて、サイドタンクの取水口「丸い帽子」は前部1箇所のみになっています。
先日、銀座を訪れた際、天賞堂50周年を記念し出版した「Tenshodo Book」を入手することができました。歴代の天賞堂製品の写真集です。
この中に、0-6-0タンク機関車も紹介されていました。
それによれば、1955(昭和30)年に最初の製品が作られたようで、当時の売価は1,750円だったと言うことです。
弊社の「8号機」は1964(昭和39)年から1970(昭和45)年にかけて製造・販売されたバージョンと思われます。縦型モーターはMV-1とあり、2,200円(1964年)~3,000円(1970年)で売られたものと判明しました。
一方の「7号機」は、丸形モーターで1976(昭和51)年に5,800円で販売されて以降、1983(昭和58)年の8,800円まで続いたバージョンであることが判明しました。
ということで、弊社に揃った2台のCタンク(0-6-0)、歴史ある製品だったことが判明し、大切なコレクションとなりました。
大阪在住の友人T氏から届けられた宅配便。段ボールの片隅に、“オマケ”が添えられていました。何と天賞堂0-6-0でした。先にオークションで入手した0-6-0を再生していたので、我家としては2台目となります。
床下機器の製作も疲れたので、またちょっと息抜きに、早速弄り始めてしまいました。届いたのは先の再生機より後年の製品なのでしょうか、台枠にバッファーがありません。モーターは5極の縦型。
モーター端子から前照灯用配線を取り出しました。
ブラッシングの後、黒を吹いておいたボイラー裏に設けた基板に、ピンプラグで結線します。
前照灯には在庫品の中から比較的大きな2012サイズのウォームホワイトを利用、念のためにクリアオレンジを流しておきました。ウレタン線をハンダ付けした後、周囲をエポキシで保護してからケース内に収めています。
リード線はご覧の通り。後で塗装します。
息抜きと言っても相手が小さいので疲れます。
前照灯へのレンズ入れやナンバー貼り付けは、また気が向いたときにやりましょう。
新5000形の乗務員室って、乗客の視線にも配慮された設計で好ましいです。乗務員の鞄を置く場所が、乗客からの前方視線を遮らないように設けられています。
結構な雨脚なのに、途中駅のホームにはカメラを構える「鉄」の姿が。一体何が?
カメラのオートフォーカスが、フロントガラスに付く雨粒に焦点を合わせるので、思い切って40倍のズームにしてみました。
しかし、ここでは雨粒にピントが合ってしまい(涙)、ホームに停車中のVSE50000形が撮れません。
横に来たときにシャッタボタン押したものの、ピントは雨粒(涙)。ホームで待ち構えていた「鉄」は、これを待っていたのですね。この日はイベント列車として走行したようです。
しかしOER3001のお出掛けはこちら。
入口を入ると猫の置物が出迎えてくれます。
赤羽にある、子ども書の専門店「青猫書房」でした。
新聞で知って、店内ギャラリーで18日まで開催と言う「絵が語る八重山の戦争」原画展を見るためでした。
あの大戦では、沖縄本島での戦いの悲惨さに接することが多いですが、3年ほど前に石垣島を訪れて、八重山の戦争もそれ以上に悲惨なものであったことを知り、この展示会には行かねばならぬと思った次第です。
その場で立ち尽くしてしまうような原画の迫力でしたが、ロシアは今も戦争を仕掛けており、今もこうした犠牲者が生まれていることに胸が痛むばかりです。平和の尊さをかみしめるため、この書籍も買ってしまいました。
展示されていた原画にもあったこれ、マラリアで亡くなった幼い弟の埋葬に向かう兄弟だそうです。
石や土をかぶせたような粗末な墓。遺体を覆っていた土が流れて現れた幼児の腕を、痩せこけた野良犬が加えようとしていたとの記録も。
広島の平和記念館を訪れた時と同じように、カラダが熱くなる時間でした。
床下機器を作っています。とりあえず今回は制動関連機器です。
先ずはダイソーへ行って、「足の長い画鋲」というのを買って来ました。
50本入りですが、とりあえず10本しか使いません。8×5のヒノキ材を9㎜長にカット、側面に1㎜厚の板紙から切り出したものを貼り付けたものを画鋲に刺してサフェーサー。
これを上下反転して床下に付けるのです。これはブレーキ制御装置なるもので、床下に付けるとこんな感じになります。
もう1種は直通予備ユニット。5φ丸棒を6.5㎜長でカット、端部をドリルレースで空気溜のように加工。これに5×2ヒノキ材を5.5㎜長にカットした片を接着。
これら2種の器具は、電動車、制御車問わず全車両に備わるもの故、それぞれ10個製作です。簡単だけど面倒臭いです。
先日、あざみ野で走らせた終盤、片台車が空転気味だったのが気になり、帰宅早々点検しました。
この車両の動力は、縦型モーターDV-18を床下に取り付け、クラウンギア(矢印)による乗り越し駆動。
その一方のクラウンギアを止めるイモネジが抜けていたのが原因。とりあえず手元にあった3㎜ビスで止めてみましたが、ビス頭が大きく他に干渉しないか心配です。
因みにこの車両の床下には、カタチだけの床下機器は一切ありません。車両中央部にはスイッチ箱を兼ねたスピーカーボックスが備わり、天賞堂EL-1でサウンドを楽しめます。
イモネジを調達するのもなかなか大変。ヨドバシカメラのネット通販でこれを選択しました。当面1本しか必要無いのですが、10本入り。やむを得ません。
届いて気がつけば、これを締めるには6角レンチが必要なようですが、手元にそのサイズがありません。そこで再びヨドバシカメラのネット通販のお世話になりました。
で、こうして締めて、漸く復旧!
ヨドバシカメラはありがたいです。お陰でまた、斯様な走りを楽しめそうです。
ヨドバシカメラのネット通販は、ビスが198円(税込)、レンチが271円(税込)で共に送料無料。支払いは貯まっていたポイント利用で済ませるという、なんともありがたいものでした。
日付ネタで画像をアップする方が多いですが、一日遅れで711系を。
711系を初めて見たのは1969(昭和44)年3月、高校の卒業式を終えて20日間ほどの東北・北海道撮影旅行の時でした。札幌駅に進入するのをCanon demiで。函館本線の電化は1968年8月でしたから、まだ1年も経っていない時でした。
1975(昭和50)年10月には、会社の上司たちと訪れた滝川で。この時は滝川機関区の蒸機が目的でしたから、序で撮りの一枚です。
1980年代に入ると出張の機会も増え、帰路千歳空港に向かうときに札幌駅でちょっと撮るのが至福のひとときでした。
1984(昭和59)年7月には、銭函-張碓間へ行って見ることができました。
1986(昭和61)年6月の出張は何と、業務終了しての日曜日を過ごすことが出来たので、千歳空港と札幌市内を往復するときに気になっていた島松-北広島間を訪ねてみました。この頃から塗装が変わっています。
1998(平成10)年9月には、出張で溜まったマイルを使って、1泊2日で北海道へ行きました。その内の1日は、日本海に沿って走る朝里-銭函間を訪ねています。夏季営業の臨時駅となっていた張碓駅はこの年から通年休止となり、2006年には正式に廃駅となってしまいます。
地味な車両でしたが、厳しい北の地で黙々と活躍した、国鉄初の交流電車。今になると懐かしく思えます。
運転会でお仲間がペーパー自作された車両を見ると、大いに刺激を頂けます。
今回は先ず東武のDRC。K田さまの作品で、全体の印象もバランス良く纏められています。
屋根上配管なども要領良く綺麗に作られていました。縦型モーターとインサイドギア駆動を編成中2両に装備、軽快に走り回っていました。
K田さんは続いて1700系特急車も。これにも惹き付けられてしまいました。
運転室の中に目が止まりました。O谷さんの作品を初めて見ることが出来ました。
方向幕、サボなどは全てパソコンで作られたとのことですが、プリント仕上げも見事です。
183系「あずさ」の9両編成も、編成中2両に縦型モーター&インサイドギアという動力で、これまた軽快な走りを披露してくれました。
さらにO谷さんは、キハ81も。独特な前頭部もペーパーだそうで、綺麗な塗装でお見事な作品でした。
こういった作例に接すると、胸騒ぎが。
とは言っても、決して同じ形式を作ろうとは思いませんが。
東京は小田急線沿線で生まれ育ったOER3001氏にとっては、何の思い入れも馴染みも無い車両ですが・・・。
私鉄との熾烈な競争を余儀なくされた国鉄が、阪神間の急行用として登場させた流電ことモハ52の一族。既にこのブログで紹介済ですが、OER3001氏が製作する切っ掛けとなったのは古い歌川模型の型紙でした。
末期の飯田線の姿は多くの友人が製作済。この流電に相応しいのはやっぱり登場時の塗装ということから、それを目指しましたが、スカートは模型的には運転に不利故不要。
そいで思い切って「タイプ」にすることとして、編成はサロハ66、サハ48を挟んだ戦前の4両とするも、中間車含めて全車張り上げ屋根とし、サッシは塗り分けると粗が目立つのでマルーンのままに。
あくまでも資源の有効活用と、昭和の香りを漂わせた模型ということで完成させたもの。 それでも運転会で走らせれば、誰もが「流電」と言ってくれます。
それでも運転会で走らせれば、誰もが「流電」と言ってくれます。 エンドウV-19縦型モーター、ウォーム1段減速インサイドギア駆動を2両のクモハ52に装備しているので、ここの勾配も全く苦にせず走ってくれました。
お仲間と楽しい時間を過ごせましたが、走らせた車両の撮影画像を見て大反省です。
上田の電車、実車では手前のモハ5251は別所線、後方のモハ2321は丸子線で運用されていたため、この2両が連結しての運用はなかったはずですが、模型では2両連結のスムーズな走りを楽しみました。
ところが・・・、収用線に並べた画像を見て!! エアー管の位置が合いません。これでは連結運転などできるはずはなく、片方を方向転換しなければなりません。ちゃんと理解して連結しなければいけませんね。
さらに、モハ2321のパンタ脇に歩み板が無いのも気になります。
不安になってRM LIBRARY 73の上田丸子電鉄(上)で調べたら、歩み板は無かったようで安心しました。
ちょっとした事情があって、昔の撮影場所を特定しなければならなくなりました。あれこれ調べていて、52年前に撮影した写真に行き着きました。
この写真を撮った記憶ははっきり残っていますが、撮影地点を正確に推測するのは大変です。重要な決め手が2点ありました。画面中央の信号機と線路の先が右カーブ上り勾配となっていること。
信号機は今は無い、国鉄相模線との連絡線を示しています。従って画面左手は厚木ということになります。
この写真の前に撮っていたのが次の写真、近付いて来るNSEの後方にクレーン。
クレーンは現海老名駅の基礎工事のものでしょうか。当時の海老名駅はもっと新宿方にありました。カメラを持って立っていたのは、ほとんど車も人も通らなかった、未舗装の厚木街道なのです。
それが今では、田圃は無くなりビナ・ウォークと称する一大商業施設、高層マンション、ロマンスカーミュージアムが出来た大規模な駅となっているのですから。
沿線を撮影していて良かったと自己満足です。
暑い暑い最中、暫し跨線橋に立ち、何本かの撮影をしました。
それから向かった場所はここ、アートフォーラムあざみ野。OER3001氏にとっては少々嫌な思い出の場所なのですが・・・。
この日はいつもの横濱模型鉄道俱楽部さまではなく、日本0番鉄道クラブ(JORC)さまの例会が開催され、ゲスト参加させて頂きました。
古くからのお仲間、モハメイドペーパーさま製作中のEF65 1000、ぬか屋さま製作中の凸型電機と一緒に、OER3001氏の小田急1600形スタイルを並べて記念撮影。
もちろんこの日も、快調に走らせて頂きました。
ただ、お仲間各位にもくれぐれも動きながらの撮影は控えるようにとご指導賜り、あの日の二の舞とならないように側面からの流し撮りとしました。
JORCの皆さま、大変ありがとうございました。
昨年の小田急、京王で発生した、走行する電車内で凶器を使っての殺傷事件は記憶に新しいものです。先月の東京メトロ車内でも、乗客トラブルが発生するなど、本当に迷惑な話です。
そんな中、京王8710の編成で、新たな防犯カメラ等が導入されたのを確認しました。2カ所の側扉上に防犯カメラが設けられました。
それに加えて、防犯カメラ前の照明器具にこれまで見たことがなかった装置が。MOYAIというブランドが確認できます。
調べてみるとこれは、株式会社MOYAIなるところが開発した、LTE/4G回線利⽤で遠隔地からリアルタイム映像の確認を可能にしたLED ⼀体型⾼機能ネットワークカメラのようです。
既に東急も採用しているようですが、急速に広まってくれればと思います。
OER3001氏が新宿西口を見て来たのは1950年代後期以来。国鉄のバラックのような西口、板張りの京王線ホーム、広場から発着するバスから、1962(昭和37)年に今のハルクビルに小田急百貨店が開店。それからの変貌ぶりは、自身の成長とともに記憶に刻んで来たのですが・・・、さらに大きな変貌が発表されています。
既にいくつかの古いビルが解体され、これまで見られなかったビルが駅前から眺められるようになっています。左手の明治安田生命と小田急の屋上広告のビル。小田急の本社機能が入っていますが、来年このビルの持ち分を明治安田生命に売却して本社機能を移転するとのことです。
「小田急百貨店全館完成」と、2600形NHE車2編成(当時は5連)と4000形1編成(3連)を特別塗装にして走らせたのは1967(昭和42)年秋だから55年前のこと。今秋からこれも解体開始とのことです。
小田急明治安田生命ビルから本社機能を移転する先が、小田急第一生命ビル。ハイアットリージェンシー東京の一角です。
明治安田生命と共有していたビルを売却し、第一生命との共有ビルに本社機能移転と、なんだか面白いですね。
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