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2022年11月

2022年11月29日 (火)

リニアを見た!

山梨県のリニア実験線を見学して来ました。とは言っても、わざわざそれを目的に出掛けた訳ではなく、序での立ち寄りでした。鉄道ファンと自認しているOER3001氏にとって、リニアは鉄道と認められません。“鉄の道”が無いのですから。

山梨県都留市にあるリニア見学センターなる施設が、開発を進めるJR東海ではなく山梨県立だったということを知りませんでした。入り口を入るといきなりこれ、引退した試験車両MLK01-2が出迎えてくれます。

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新幹線のような車内ですが、名古屋まで40分と言うのなら、こんなシートは要らないのではないかと思ってしまいます。

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3階へ上がると、テスト走行する列車(?)が目前に見られます。甲府方のトンネルを時速500kmで抜けて来ました。

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今度は大月方から時速500kmで通過します。

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再び甲府方のトンネルを抜けて来るところを。それにしても500kmという速度は馬鹿早い。轟音と共に一瞬のことで、風圧でリニア見学センターが地震のように横揺れするのです。

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これは大月方向に向かう試験列車の後追い。試験列車が目視できる以前から、1/1000シャッターを連写しておかなければ、通過する姿を捉えきれません。

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だいぶ離れたところへ去りましたが、それでも1秒後位だったでしょうか。

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再び1階へ下りて、展示されている過去の試験車両をゆっくり見ます。

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真っ暗いトンネルばかりを時速500kmで駆け抜けるって、一応側窓もありますが何の意味があるのでしょう。

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リニアという乗り物、強烈な磁気と轟音と沿線に与える“地震”様の揺れ。正直こんなもの要らないと思うのはOER3001氏だけでしょうか?

 

2022年11月27日 (日)

小田急の変電所(1)

新しいテーマです。「小田急の変電所(1)」としましたが、(2)がいつのことになるのか、全く不明です。

山王川改修事業を見に行った際、折角なので周囲を散策しました。足柄駅の蛍田方踏切(蛍田3号)の先、伊豆箱根鉄道大雄山線の上を越えた列車は足柄駅に向けて勾配を駆け下りて来ます。

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左(山側)の小高くなった場所から小田原方を見ると、この時はちょうど、入線直後の試運転で5061×10が来ました。

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その小高い所に、足柄変電所が設置されています。

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調べてみると、22kVを受電し、整流器容量6,000kW×2を要する規模だそうです。

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左方の変電設備からのケーブルは、地中から山形鋼組鉄柱横を通って上部に至ります。

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そこで、各方面へのケーブルに分岐されています。

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因みに左から足柄-小田原間の電力線。

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その右側に、同じく足柄-小田原間の信号用電力線。

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さらに右は松田-足柄間の信号用電力線。

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右端のビーム下に足柄-小田原間の上下線別饋電線という具合。

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松田-足柄間の電力線と上下線別饋電線は、ちょうど反対側から出ているものと思われますが、反対側を確認できる場所への移動は叶いませんでした。

それにしても、電気鉄道の電路設備を観察するのも面白くなってきました。これを知ってしまうと、レイアウトの線路にただ架線柱を植えるということでは済まなくなってきます。しっかりした知識の下で模型製作したいものです。

 

2022年11月25日 (金)

レールの架線柱

架線柱には木柱、コンクリート柱、鉄柱、鋼管柱、鉄塔などがありますが、秩父鉄道ではレールの架線柱が多く使われています。鉄柱と言えば鉄柱ですが。

これは武州日野-白久間にある『道の駅 あらかわ』前の踏切横のもの。あまりに青い空とのコントラストが奇麗でした。

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踏切の柵に邪魔されて、下部が見えないので角度を変えて。レールを背中合わせにはんだ付け、いや違う、金具で締め付けて固定し、下方を逆Yに広げて埋め込んでいます。

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電気鉄道の「架空電車線方式」の教本のように、トロリ線と吊架線で吊したシンプルカテナリー式の架線に加え、標準で250 mごとに饋電線からトロリ線に接続される饋電分岐線、付帯電力の高圧配電線がしっかり張られていました。

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鉄道模型でこれらを全て取り入れることなどできませんが、「柱を立てただけ」のレイアウトでは悲しいですね。基本的な知識を理解したうえで、模型化したいものです。

 

2022年11月23日 (水)

どうしても線路の近くへ(2)

秩父ではここ、奥秩父荒川 柴原温泉の柳谷旅館に投宿。斯様な宿はOER3001氏には見付けられないでしょう。あの“なんとか割”と地域クーポンが利用できました。

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温泉は計4回入り、何処の旅館でも出る鮪のお造りや海老の天ぷらなど一切出ず、秩父ならではの食材を使った山菜の天ぷら、猪鍋、鮎の塩焼き、自家製手打ち蕎麦など、食事も大満足でした。

2日目は朝食後、地域クーポンが使える店を探し、結局ドラッグストア、食品スーパーでの買い物となりましたが、道の駅にも回ります。道の駅と言えば「あらかわ」、向かう途中でここを通過するの1枚が撮れました。

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「あらかわ」は女性たちが興味を持ちそうなものが多く、放っておける施設です。駐車場からも撮ることができるので一石二鳥です。

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“自由時間”にして、OER3001氏は線路に沿いつつ歩き始めました。武州日野駅まではさほど遠くありませんでした。

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“SLパレオエクスプレス”を狙う場所定めはここにしました。

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時間までに、反対側から来る列車も撮っておきます。

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“本番”には同業者4人が出現。12:44に“本命”が近づいてきましたが、勾配ゼロの鉄橋では煙を出してくれません。

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鉄橋を渡りきったところから武州日野駅にかけて20‰勾配です。

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これを撮って「道の駅あらかわ」に戻りますが、途中の線路にこんなものが。

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「しゃくし菜」5㎏が3束、なぜこんなところに?

 

 

2022年11月21日 (月)

どうしても線路の近くへ(1)

幸せなことだと思わなくてはいけないのですが、定年後の職場で得た友人からの誘いで、晩秋の秩父旅行に加わることになりました。長瀞ライン下りを楽しみたいという女子たちを長瀞駅まで送ります。

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乗船券を購入後はOER3001氏一人の時間を楽しみます。早速やって来てくれたのはこの電車。

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およそ1時間後には長瀞駅に戻らねばならず、さほど遠くへは行かれません。それでもまあまあの場所で、影森に向かう貨物が撮れました。

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カラの貨車を牽くので走りは軽やかな感じでした。

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なるべく線路に沿って歩いて行くと、線路の反対側には長瀞の石畳と紅葉が広がっているではないですか。

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進んでいくとこの場所まで来てしまいました。親鼻鉄橋の上長瀞方です。羽生行が来てくれました。

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序でなので上長瀞駅を収めて、今度は線路の反対側を歩いて長瀞駅に戻りました。

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あと数分で長瀞駅かという辺りで「今どこ?」と入電。このあと仲間たちと合流し、宿へ向かいました。

 

2022年11月19日 (土)

過去vs現在-13 千歳船橋

OER3001氏が小田急に興味を持つようになった地がこの駅でした。今は大俳優だった森繁久彌(1913-2009) の胸像が、高架下に設置されています。これは、一周忌にあたる2010年に、東京都世田谷区が千歳船橋駅から旧森繁私邸へ抜ける区道を『森繁通り』と命名したことを受け、氏が『屋根の上のヴァイオリン弾き』で演じたテヴィエ役姿の胸像「テヴィエ像」として、2014年に設置されたものです。

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駅の北東0.5㎞ほどにあった氏の大邸宅は、OER3001氏が住んでいた場所の直ぐ近くだったことから、ヨットが置かれていた庭で遊んだ思い出があります。招き入れてくれたのはご子息の一人だったようです。

その千歳船橋駅、北側(山側)から見た今の姿です。胸像の設置場所は右端の高架下です。

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OER3001氏の記憶に残る千歳船橋駅の姿はこれ。

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学校から帰るとここへ行き、行き交う電車を見ていて・・・。駅員さんもいつしかその小学生を覚えてくださり、事務室内に招き入れておやつをくれたりしました。駅や駅員さんが地域に溶け込んでいたという良き思い出です。右の交番には、拾った10円玉を届けた思い出でもあります。10円玉を預かったお巡りさん、「ぼく偉いね、ありがとう。これしっかり預かるから、ご褒美に・・・」と言って自分のポケットから取り出した10円玉をくれました。

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そんな素晴らしい思い出は、ほぼこの時代。ボルダ版フィルムの玩具カメラによる撮影で、近年着色してみた画像ですが、ここに写る跨線橋や上屋は、高架化工事まで健在でした。

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高架化工事開始直前に訪れた時は、ホームこそ延伸されていますが雰囲気は昔のまま。営団6000系も古の記録になってしまいました。

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高架複々線となった今は、同じようなアングルで撮ろうとすると、8両編成の2000形をはじめとして10両編成の最新鋭5000形まで停車します。

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通過列車の撮影にも良い場所ですが、床下機器の撮影にも適する駅になりました。是非一度、電車の撮影に訪れたら改札を抜けて、『森繁通り』の散策をされては如何でしょう。

 

 

 

2022年11月17日 (木)

奇車怪社さんの未完遺作完成発表会

奇車怪社さんの急逝から間もなく1年。ご家族から頂いた遺作を仕上げるプロジェクト報告として、1年ぶりに「多摩のもレール」の開催となりました。

前回の模様は「多摩のもレール 2021.11」にありました。奇車怪社さんが幹事を務められ、楽しく過ごしていたのにまさか、この1か月後に帰らぬ人になってしまうとは。

同じ会場に4人プラス1人が集まりました。メンバーの一人阪鉄車両さまが、早速この詳細報告をされていますので、そちらも是非ご覧ください。完成したのはこの4両でした。

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プラス1人のてつさんはその昔、多摩NTエリアに3年ほど住んでいたとのことで初参加です。当然奇車怪社さんの遺品は譲り受けていないので、名刺代わりはこれ、クハ715の試組。なんと会社の設備を使ってレーザーカットだそうです。

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そんなことより、参加メンバーのお一人、くるよさんの見事な手さばきでたこ焼きが。

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ここで盛り上がった後は、1年前と同様に2,3軒向こうの串カツ屋へ。このパターンも奇車怪社さんと過ごした時と同パターン。こんなきっかけを創ってくださった奇車怪社さんに感謝です。

 

2022年11月15日 (火)

上を行く御殿場線

2社の列車が交差する情景は魅力的なのに、なかなかその瞬間を捉えることはできません。特に列車密度が低い路線だとなおさらです。

新松田で小田急線と交わるJR御殿場線などは、これまでバッチリ撮れたことはありません。この日も自分が乗る快速急行を待つ間、運良ければと期待していましたが・・・、

御殿場線が来たのは快速急行に乗った時でした。

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本当は「上に御殿場線、下に小田急」を撮りたかったのですが・・・。ま、それはまた何れということに。

 

2022年11月13日 (日)

塗装?

塗装はマスキングが全て」をアップしてから2か月が経とうとしているのに・・・、遅々たる進捗です。

A-oneのノーカットラベル、フォト光沢紙(白無地)を使います。

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表面にラッカーを吹きます。吹いた色はこの2色。

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床下の塗装も終えて、マスキングしてシルバーを塗り分けた車体が待っています。

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実車の細く薄いブルーのラインは30mm幅、濃く太い帯は15mm幅、その間は20mmなのですが、正確に1/80に切り出すのはできませんから目分量で。

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こんなもんでまあまあと、自己満足です。

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が、これをチマチマ10両も。加えて先頭車は正面部分が複雑。気が遠くならざるを得ません。

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これだから気晴らししたくなって他に手を出すのです。手を出した「他」が次々に出場しているというのに・・・、いつになれば完成するのか?

 

 

2022年11月11日 (金)

久々にVSEを撮る

平日の11月4日のこと、50000形VSEが走ることを知り、ちょうど世田谷美術館に行く予定があったので、その前に撮ることにしました。

最初は喜多見車庫から新宿への回送を、千歳船橋駅ホームで待ち受けると11時7分、目前を通過して行きました。

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乗客を乗せた営業列車、当初は千歳船橋駅で撮ろうとしましたが、線路脇のビル影が車両にかかることを発見。祖師ヶ谷大蔵駅に移動して待ち受けました。

11時51分、軽快な連接台車の通過音を残して、目前を通過して行きました。

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この時傍らには学生風の若い人がスマホで動画撮影していただけ。ゆっくりとカメラに収めることができました。

 

2022年11月 9日 (水)

山形県 東村山郡 中山町

「五月雨を あつめて早し 最上川」松尾芭蕉の「おくの細道」にある句はあまりに有名ですが、その最上川に架かる鉄道橋のひとつが、左沢線羽前長崎-南寒河江間の橋梁。国鉄→JR東日本長井線を引き継ぐ山形鉄道(フラワー長井線)四季の郷-荒砥間の橋梁とともに、1887(明治20)年より東海道本線木曽川橋梁として使われていた150ftの単線ダブルワーレントラス橋で、左沢線に5連、フラワー長井線に3連が移設されたもので、「日本最古の現役鉄道橋」です。

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一方左沢線の羽前長崎方は、100ftの単線プラットトラス橋3連が架けられていますが、これまた九州鉄道・筑豊本線遠賀川橋梁を移設したものと知り、歴史の重みを感じる土木施設です。

その橋梁に7時7分にやって来た上り山形行列車は4両編成でした。

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先頭車両が150ft単線ダブルワーレントラス橋から100ft単線プラットトラス橋に進みました。

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一旦部屋に戻った7時25分、通過して行った下り列車はなんと6連。これちゃんと撮りたかったな~、と思っても後の祭り。

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朝食後には、頭を見せてくれるようになった標高1,984mの月山を入れて撮りたく、再び河畔に向かいます。9時10分に2両編成が来てくれました。150ft単線ダブルワーレントラス橋に差し掛かります。

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顔がトラスにかからないようにシャッターを切ります。

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ちょうど5連目を渡り切り、3連の単線プラットトラス橋に差し掛かる直前が、月山を入れてちょうどよい位置でした。

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撮影を終えれば時間を気にすることなく周囲を散策。先の豪雨による増水で荒れた河川敷を整備したのでしょうか、オートキャンプができる施設も整備され、奇麗なトイレ横のこれに目が止まりました。

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「鍋掛松」だそうで、鍋が掛けられています。山形の「芋煮会」はこの地が発祥だったようです。

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最上川舟運の時代、ここ長崎の港が米沢方面への船荷の積み替え要地だったとのこと。船頭や水夫たちが、京都から運ばれた棒鱈と地元産の里芋を材料に、河岸の松の枝に鍋を掛けて煮て食べていたというのが始まりだったようです。

土地の文化にも触れることができ、良い思い出になりました。

 

2022年11月 7日 (月)

左沢線1/80、1/1

4年ぶりに行って来ました、山形での運転会。

今回最大の目標が、運転会を利用しての左沢線キハ101系、実車と模型のツーショット、やっと念願を叶えることができました。

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何度か訪れていた場所だけに、何とか光線状態の良い環境で、概ね1時間に1本のダイヤに合わせて準備したワンショット。もう少し模型をこちらに向けた方が良かったようですが、これで良しとしましょう。 既に白い山頂になった月山を背景に入れたかったのですが、角度的に無理でした。 

 

2022年11月 5日 (土)

山形へ

4年ぶりになるでしょうか、本日より東北の名門「はつかりクラブ」山形支部での運転会にお邪魔します。

会場は最上川畔の保養施設。すぐ隣は左沢線の線路で、朝飯前には橋梁での撮影も計画。

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そして会場では、そのキハ101系の手作り模型を走らせることでしょう。

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残念ながらこの間に亡くなられた方も複数居られ、寂しい限りですが故人を偲び、みんなで語り合うのも楽しみです。

 

2022年11月 3日 (木)

今日の一枚 No.148

55年前の情景を。2200形と2400形HE車の6連急行が迫るここは何処でしょうか? 現在の風景と対比したかったのですが、今は覆いが付いて撮れなくなってしまいました。代々木八幡の山手通り陸橋からの眺めです。

2200形は原型に近く、前照灯は1灯、屋根上のランボードはまだ撤去されていません。方向幕は新設され、電気連結器は56芯に交換。連結器はNCB-Ⅱ、密着自連の時代です。

良く見ると2200形は、他の2200形と異なる部分が多い2211-2212でした。

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乗務員扉両側の手摺は、通常の縦形ではなくステップ状の横形。この手摺形状は2300形、3000形SE車、ディーゼルの5000・5100だけが採用していました。

2211の台車は本来のアルストム形FS203ではなく、三菱MD101。この写真でも2列の枕ばねが確認できます。この日、この時間に何しにここへ出掛けたのかさっぱり覚えていませんが、夕刻に撮った一枚でも、様々なことがわかる貴重な記録となりました。

 

2022年11月 1日 (火)

野川改修事業

(本編は昨日アップ後、SEとSSEが逆に表記されていたことに気づき、本文を一部修正しました。)

昨日、山王川改修工事について触れたところ、花見牛さまから「子供の頃の野川改修で成城学園前-喜多見間が大きく迂回していたのを思い出します。」とのコメントを頂きました。「NSEが身をくねらせて急なカーブを通過していくのを、陸橋から見おろすのが楽しみでした。」とのこと。

それなら当時を思い出してみようと探したところ、1967(昭和42)年の記録を見つけた次第。御殿場線乗り入れに備えてSSEへの改造が始まったとき、8連のSEの記憶を留めておこうとして乗った時でした。先ずは新宿から新装なったSSE(3015×5)に乗車。成城学園前を過ぎ、喜多見にかけての下り勾配を駆け下ります。が・・・、「制限70」の標識。

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元の上下線を左に、大きく右カーブします。仮線は木製架線柱だったのですね。

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以上は下り線を行くのSSE車からの撮影。

 

代わって上り線も。今度は8連のSE(3021×8)車内からです。喜多見を通過して上り勾配にかかるあたりで70㎞/hに減速。ちょうど速度制限標識がピラーにかかってしまいました。

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迂回する仮線を進んでいるとき、1700形が下って来ました。

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元上下線を右方に見つつ、勾配を駆け上がります。

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ここがちょうど、仮・野川橋梁の上です。先の左カーブを過ぎれば成城学園前。

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実は運転台、SEとSSEとでは微妙な相違点があるのですが、これらの写真でお判りになったかどうか?

 

1968(昭和43)年秋に、改修工事が終わって元の直線となった線路を下って来る列車を撮影していました。この時は特別塗装の2600形。「フルーツ号」の運板を掲げていました。

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それからおよそ3か月後となる1969(昭和44)年2月、仮線の盛り土が残るも立派な橋梁と架線柱となった本線を、あの跨線橋から撮影していました。

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さらに20年後に再び大工事が行われ、NSEが進む先は地下線に。写真右手は喜多見電車基地となるなんて、想像もしていませんでした。

 

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