稲田登戸1948年
前回ご紹介のデユニ1002の撮影地は、稲田登戸(現・向ケ丘遊園)駅と判明しました。
そこで今回は、稲田登戸駅でその翌日に撮影された、Y.T氏撮影の一枚を。解読しづらい車番ですが1502であることが確認できます。
戦時中のいわゆる“大東急”から分離独立、新生小田急電鉄は1948年6月1日に誕生しますが、この一枚はその3か月後。荒廃した姿のままで、閉まっていない側扉、窓ガラスがの無い窓も。車体中央の車号の上部は、何かペイントで消されているようです。
2両目は旧帝都のモハ200形、両運転台のデハ16001450形1458です。戦争中に車両のやりくりをして、帝都線(井の頭線)から2両を受け入れた姿です。新宿方にクハ1502(旧帝都クハ502)を連結して、新宿-稲田登戸の折り返し運用に就いています。荒廃した車両であっても、半室運転台の反対側座席最前部、開けた窓から風を受けつつ前方を眺められた時代。羨ましいなどと思ってはいけませんね。
この後方に確認できる屋根は、まさしくギャンブレル屋根の北口駅舎です。この駅舎だけは今も美しい姿が維持されていますが、周囲の様子は想像できない長閑なものです。
*モハメイドペーパーさまからのコメントから、本文の一部を加筆修正させて頂きました。
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コメント
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これも貴重な写真ですね。連結しているデハは1600形ではなく1500形1501(当時の車号は東急時代の1458?)だと思います。写真をよく見るとデハのパンタはS-514ではないし、幕板とドア上辺の位置関係も1600形とは異なっているのがわかります。
この2両はブレーキ方式の違いから小田急の在来車両とは連結できず、1956年にクハの車体延長と合わせて制御装置などを変更してABF車の仲間入りをするまで、単独で運用されていたそうです。
投稿: モハメイドペーパー | 2023年2月16日 (木) 10時23分
◆ モハメイドペーパー さま
ご指摘ありがとうございます。
その通り、帝都からの車両は2両手を繋いで運用されたとの話は知っていたのに、それを失念して1600形とみてしまったようです。
早速本文修正させて頂きます。
投稿: OER3001 | 2023年2月16日 (木) 13時03分
前回といい今回も小生生まれる前の記録、御宝画像ですね。
まだ出て来そうで、素人ながら楽しみにしております。
投稿: ぬか屋 | 2023年2月16日 (木) 14時11分
◆ ぬか屋 さま
はい、貴重ないわゆる“お宝画像”です。
写真も、必要と思われるものをデータ化していましたので、機会あればまた。
投稿: OER3001 | 2023年2月16日 (木) 18時39分
これは貴重なお写真!
梅が丘の連絡線から入線したのでしょうか。
投稿: Cedar | 2023年2月17日 (金) 01時46分
◆ Cedar さま
1945(昭和20)年5月25日の東京大空襲後に急遽、世田谷中原(世田谷代田)と代田二丁目(新代田)間に設けられた連絡線によって実施されました。
投稿: OER3001 | 2023年2月17日 (金) 07時14分