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OER3001氏が鉄道に興味を持ち始めた小学生時代、3年生だか4年生の時だったか、車内妻板上部に製造所のプレートが取り付けられていることを知りました。当時の小田急線では吊り掛けのABF車までは真鍮エッチング製、カルダン車からはアクリル製に変わりましたが、2200形の1次車は真鍮だったかな?記憶がはっきりしません。ABF車でも車体更新されて車内が化粧板になったのはアクリル製でした。
そして覚えたのが「日本車輛」「川崎車輛」「東急車輛」。何れも学校で習った「車両」ではなく「車輛」だったことを鮮明に記憶しています。
神戸に行ったのなら、「川崎車輛」をこの眼で確認しないわけには行きません。和田岬線に乗ったのも、それが理由でした。和田岬駅から歩き始め、神戸市電を見たら直ぐ運河。「兵庫運河」だったのです。運河の右手に、青いシートが掛けられた完成車両が何両か見えました。
兵庫運河を渡ると左側が川崎車輛の工場地。その先の“隙間”を、和田岬線の207系が通過して行きました。
この先を左折すれば、工場の中央を横切れる公道なのですが、そこから工場方向へは「撮影禁止」と大きく表示されています。
紳士的なOER3001氏は、首から下げたコンデジで隠し撮りなどと言うことは致しませんでしたが、EF510、JR北のH100、JR西227系のような姿を確認しつつ通り抜ければ、もう一つの橋向こうに、社屋の前に0系新幹線と憧れのこだま型電車が並べられているのが見えます。
残念ながら土曜社休日と言うことでもあり、敷地内には立ち入ることはできないので、公道からその姿を眺めるしかありません。
それでも社屋のロビー内、ガラス越しに台車や模型が展示されているのが見えます。台車は1949(昭和24)年に製造され山陽電気鉄道831に装着されたOK-3形だと言うことです。
結局この日は、和田岬駅から兵庫駅を通り過ぎ、神戸高速線大開駅まで歩くと言う、良い運動になりました。
半世紀にわたりお付き合い頂いているぼっちぼちさまのブログ「1971年 春 北陸鉄道小松線」に刺激され、訪問した時のことを思い出しました。OER3001氏が訪ねたのは4年後ということになります。
社会人になって3回目の夏休み。短くも充実した休みにしようと富山地方鉄道を目的に出掛けたと記憶しています。小松に寄ったのは帰宅するために小松空港に向かう途中だったのか、あまり良く覚えていません。
北陸鉄道小松線については、前述のぼっちぼちさまが丁寧に解説されています。OER3001氏が小松駅に行った時はこのモハ3004が発車待ちでした。
怪しい夏雲の方に向かって、3004は1両で発車して行きました。左の庫内には3005が確認できます。
ホーム横の収容線には3003、後方は3001と推測されます。
1971(昭和46)年に金石線から転入した5両のモハ3000形の内、ここだけで4両を確認したので、残る3002が小松に向かっていたのでしょうか。1949(昭和24)年に日本鉄道自動車で製造されたモハ3000形、全長14.82mで側窓の天地が広く明るい感じの好ましいスタイルでしたが、1986(昭和61)年の廃線で姿を消しました。
OER3001氏が初めて見た神戸市営の電車(神戸市電)は、1977年3月に名谷 - 新長田間5.7kmで開業した神戸市営地下鉄の1000系車両です。
残念ながら1971年3月に廃止された「市電」(路面電車)に乗ることはできませんでしたが、当時の車両に出合うことができました。
1954(昭和29)年に製造された1100形が、和田岬駅から近い御崎公園の一角に保存されています。
屋根下でかなり良好な保存体制で安心です。
台車は住友金属製FS-62、弾性車輪付き一体鋳鋼台車。軌間1,435㎜、軸距1,380㎜で、主電動機は38kW1台が台車端梁に装荷されています。
なるほど、これが弾性車輪なのですね。どうも見慣れないカタチだと思いました。車輪径は660㎜だそうです。
良いものに出合えました。沿線を歩いてみた成果です。
JR西日本の和田岬線(兵庫-和田岬2.7㎞)は、朝夕の通勤時間にしか旅客列車は走らないことで有名(?)な路線。
鉄道建設の資材輸送のために1888(明治21)年に敷設されて以降、貨物輸送を担っていたものが、現在は川崎車輛で製造された鉄道車両の輸送しか無くなってしまった路線で、旅客輸送は三菱重工、三菱電機関連の通勤者の足を担います。
月曜日から金曜日は6~9時台に7往復、16~21時台に10往復の計17往復が運転されますが、土曜日は7~8時台に6往復、17~20時台に6往復の計12往復、休日は7時台、17時台に各1往復の2本と、首都圏から行く身にとっては誠に乗りづらい路線です。
その和田岬線に乗ってみようと、ふたば学舎での運転会参加後、“山陽本線”兵庫駅
へ向かいます。
高架のJR神戸線兵庫駅の横、地平にそのホームがあります。土曜日ダイヤの夕刻帯1番列車、17:15発に乗ることができました。
兵庫駅ホームの先は、“山陽本線”に繋がる線路が見えますが、その手前のシーサスクロス先を左に曲がるのが和田岬線。
カーブを曲がるとそこはもう、川崎車輛の工場なのですが、残念ながら分岐点を撮り損ねました。
2001年に電化された路線とあって、架線設備は立派なものです。和田岬駅までは僅か3分。途中の兵庫運河を越える所では、日本最古かつ最初の鉄道橋である和田旋回橋を通ったのに、それも撮影しておらず残念です。
和田岬駅には既に乗客が到着する列車を待っています。ホームの先に車止め。
無人で改札機もICカード読み取り装置も何も無い、バス停のような駅舎(と言うのか?)がぽつんと建っているだけです。
ホームは6両編成が停まれる長さなので130m程だと思いますが、その横に2か所の出入り口。
出入り口横には斯様な案内が。
和田岬から乗って、兵庫までの折り返し1往復体験乗車なら、乗車料金が取られない仕組みですが、そんなこと考える輩は居ないかな。
和田岬発兵庫行きを、御崎本町踏切で撮りました。
和田岬線には神戸市からの存続問題も発生していたようで、その成り行きが気がかりです。少ない運行時刻に合わせて、できれば乗ってみておくべき路線ではないでしょうか。
?・・・となるタイトルですみません。
“東海道本線”を走って来たこの列車が、今まさに“ 山陽本線” に進入しようとしています。これに乗って・・・、
関西のグループからのご招待に甘え、降り立った駅はここ。
駅からほど近い場所にある、歴史を感じる見事な建物が会場です。
「ふたば学舎」という、元は小学校の建物を再生した施設。威厳がある階段を上ります。
3階の講堂に「運転会」と表示が掲示されています。
広~い会場に軌間32㎜(Oゲージ)、曲線半径3mという緩やかな複線エンドレス他が展開されています。
その収容線の中に、完成して間もない小田急2320形(擬き)を並べさせて頂きました。お隣のダークグリーンは、NKN氏がオークションで入手、再生された故・合葉博治氏の作と思われる名車。実はOER3001氏の2320も、その動力部分は合葉氏の“東京電鉄仕様”なので、是非並べたかったのです。
早速、撮影会擬きになってしまいました。2320形はモーター回路を切り、灯具類を点灯させて目立つ演出です。
そこに、Cedar氏が同じオークションで入手、再生された“東京電鉄仕様”の3両が加わりました。こちらの3両の作者はどうも合葉氏ではないお仲間の作のようですが、素晴らしい出会いの場となりました。
撮影後、広~いエンドレスを存分に走り回ることができたのですが、運転に集中して撮影を忘れてしまいました(涙)。走行の様子はこちらにアップされていますので併せてご覧頂けましたら幸いです。
今回の運転会にご招待くださったNKNさま、ご関係の皆さま、本当にありがとうございました。
ちょっと写真探索していて目に止まった一枚。
1967(昭和42)年8月19日撮影とあるので、高校2年の夏休みですね。SEからSSEへ改造されつつあった小田急3000形ロマンスカーに乗車するため、江の島まで往復して来た日のことだったようです。
このブログをご覧頂いている大方の人は、都電(19系統・王子駅行 3036)に目が行くことと思いますが・・・
左に前部が切れたスバル360、その後方にはブルーバード。電柱の看板は「性病科 今川橋医院」「質 きくや」、ガード上を行くのは言うまでも無くオレンジ色の101系ですが、そのガード下には「JAPAN TRAVEL BUREAU」「神田駅 アカデミー酒場劇場」と。
いやま~、何気なく撮っていた一枚に、今日では見られなくなった、時代を感じる情報がどれだけ詰まっているのか、面白くなってきました。
因みに、「着彩!モノクロ写真」なるアプリケーションで着色してみました。
う~ん・・・、まあね。
『京王相模原線、小田急多摩線、 多摩モノレール「多摩センター駅」より徒歩5分』と称していますが正直なところそれぞれの改札口から5分はかからないでしょう。特に京王相模原線、小田急多摩線の改札口出て南を見れば、正面に構えているのが多摩市立複合文化施設「パルテノン多摩」です。
そこで11月2日まで開催されている企画展です。
ミュージアム企画展「鉄道が街にやって来た~多摩ニュータウン鉄道開通50周年~」 - パルテノン多摩公式サイト (parthenon.or.jp)
小田急ファンで京王にも親しみを持っているOER3001氏が、実は途中からこれにご協力させて頂くことになりました。詳細は追ってご案内させて頂くことになりますが、ニュータウン開発と鉄道の関係、興味深い内容ですので是非一度ご覧頂いては如何でしょう。
多摩川畔の模型店2階レイアウトで開催の“シニアの運転会”、今回は“井の頭線まつり”となってしまいました。
京王井の頭線は1933(昭和8)年に渋谷-井の頭公園を開業、翌1934(昭和9)年に井の頭公園-吉祥寺を延長開業、現在の路線となって90年を祝おうということで。
OER3001氏はまず、開業時に用意されたモハ100形、モハ200形転じたデハ1400形を先頭にしたペーパー自作の4連。
デハ1400形は吉祥寺方ですが、渋谷方の先頭はデハ1700形。中間にはデハ1700形とサハ1300形を連結しています。
同線唯一の荷電、デニ100形も参加です。
井の頭線にはありえなかった光景ですが、トラス橋を行く4両編成の下を、単行デニが行きます。
模型では2両のデハ1700形がパワトラ装備の動力車、勾配路線も難なく快走でした。
走行が終わった2編成は、共に引き上げ線に収容です。
代わって登場したのはIMI氏が3Dプリントで自作された3000系。第1編成(ブルーグリーン)の登場時4両編成と第2編成(アイボリー)の冷房化後の5両編成が周回し始めました。
3000系は拡幅車体両開き扉になってから、試作冷房車として登場した第14編成(ライトブルー)も加わって全3編成が参加です。
いや~それは壮観。全車並べて写真撮影です。
その後に持たれた反省会(?)で、3000系どうせならあと4色作ろうよ、という話になり、IMA氏が3D出力で車体用意。それにOER3001氏他にKT氏、OT氏、そしてなんとIY氏まで加わって、4色を揃えるという計画が決定(?)してしまいましたが果たしてどうなることか。
7色揃ったら総観でしょうね。さらに地方私鉄譲渡車(上毛、岳南、松本、北陸、伊予)も加わったりして(笑)。
1974(昭和49)年6月1日の開業日こそ、当時最新鋭の9000形6両編成や4000形3両編成が走りましたが・・・。
それは一種の開業イベントだったようで、翌週にはABF車の4連が充当されていました。
この日の編成は1909-1959-1960-1910他。
それに2100形2103-2153+2104-2154編成も加わっていました。
その後は乗客数の実態に合わせてABFの2両編成が充当されるようになってしまいました。
小田急多摩センターまでの延長開業は1975(昭和50)年4月23日のこと。水曜日だったこともあり、残念ながら会社勤めの若い身。休暇も取れなかったのでその日は見に行くことができませんでした。
後日に撮った新百合ヶ丘ホームでの1910形、撮影日は不明ですが、乗客の服装から夏前だったと思われます。
ABFの2両編成では1900形(1910形)での運行に良く出合いました。
出掛ける都度に、新百合ヶ丘や多摩センターで撮っていました。多摩センターではお隣の京王相模原線では5000系の6両編成が発着しているのに、小田急はたった2両ですよ。
こちらは永山を出た後狙い。この時代、前照灯ケーシングのカラーは黄/紺時代の紺でした。
多摩センターから折り返してきたのを撮りましたが、2両編成では後が写りません(涙)。
乗客もまばらだったので、乗ってしまえば車内では好き放題。側窓全開にして向こうから来るのも撮りましたが、小田急多摩センター駅を発車して間もなくのこの場所、今では右の丘は住宅地、さらに前方には歩道橋が掛けられて。
2年ほどABF車2両編成の活躍が続きましたが、いよいよそのABF車も引退と言う時、ヘッドマークを掲げた4両編成の惜別列車が運行されました。この頃の前照灯ケーシングのカラーはアイボリーでした。
小田急多摩センター駅の先、現在では唐木田までの本線となっている下り線に止めて、撮影会も開催されました。この時のヘッドマークは小田急が用意したもの(右)とOER3001氏が製作したもの(中央)の2種が掲げられています。
鉄道友の会として企画した惜別記念列車、OER3001氏は乗車していたので外観は撮ることができませんでしたが、お仲間がしっかり沿線で記録してくれていました。
五月台-栗平間の場所、今は住宅地となっていて、この時の面影は背後の送電鉄塔だけが頼りです。
まさに多摩ニュータウンへのの足として建設された鉄道の、開業当時の苦しい姿。その後の変化を経て今日に至っています。
モハメイドペーパーさまのレポートに刺激され、早速26日に行ってみました。師匠の教え通りにまずはロケハンかたがた狭山ヶ丘へ向かい、車椅子スペースから連写モードで撮ります。
狭山ヶ丘からの戻りは丁度40000系が来たので、10号車パーソナルゾーンの大きな側窓から撮ります。
これで状況が判りましたので、小手指で下車。車両基地終端まで歩くのを諦めたモハメイドペーパーさまと違って、車両基地に向かってみることにしました。山側の道路を行くと、フェンスの間にコンデジのレンズを入れて斯様なのが収められました。
車両基地終端までは1.2キロくらいかと。2、3人が眺めていましたが、ここでもコンデジはフェンスの隙間にレンズを入れられるので便利です。肉眼では良く判りませんでしたが、東急の車両も後方に居たのですね。
踏切を渡って海側の道路を小手指駅に戻りながら、8000形横を行く本線の40000系とツーショット。
新宿方8251の姿も、池袋行き準急の6000系と共に撮っておきます。
西武の池袋方が、小田急車の新宿方となったことに気付きました。と言うことは・・・、
国分寺でJR中央線と並ぶことになった時、小田急新宿駅に於けるJR中央線との向きは変わらないと言うことですね。どんな西武仕様に改造されるのか、楽しみです。
開業日の下り一番列車に使われた9404×6でしたが、この日はその後多摩線を走ることは無く・・・、若しかしたら6両編成の列車が多摩線に充当されたのは開業一番列車の特別運用だったようです。小田急永山駅折り返し時に「箱根湯本 江ノ島」や「新宿」の方向幕を掲示していたのが滑稽です。
小田急永山駅を出て沿線を歩いてみることにして、永山隧道の向こう(黒川方)に行ってみれば、建設工事中の京王相模原線軌道部への立ち入りが出来たではありませんか。永山隧道を抜けて来た上り4000形4022×3を撮っておきました。
新百合ヶ丘から来た1700形4連が諏訪隧道を抜けて来ましたが、その上部に「電車見橋」はまだありませんでした。
諏訪隧道方まで足を進めて、小田急永山で折り返した1700形1703×4を撮った京王相模原線との間が、1991年の台風21号による土砂崩壊に乗り上げた2600形が現地解体された場所になるとは。
丁度画面左が現はるひ野駅。京王相模原線が未開業だったからこそ撮れたアングルです。
同じく左方が現はるひ野駅。1703×4が通過中の道路予定だった隧道は、その後の計画変更で盛土になりました。もったいない土木工事をしたものです。
沿線撮り歩きしつつ黒川へ。黒川隧道を抜けて来た1703×4が、黒川駅停車の制動を掛けています。当時は6両対応だったホームは現在、架線柱1本分延伸。背後の隧道右手はその後、西光寺の墓地となりました。
50年前の黒川-小田急永山の光景、当たり前ですが大きく変化したものだと驚きます。
1974(昭和49)年6月1日、小田急多摩線が開業しました。
小田急多摩センターまで計画の内、この日開業したのは小田急永山まで。新百合ヶ丘からの下り一番列車に充当されたのは当時の最新型車両であった9000形、9404×6でした。
新百合ヶ丘駅も今とは大きく違って閑散としていた中、上下ホームの上屋には数か所、開通祝賀の看板が掲示されていました。
早速下り一番列車で小田急永山に向かうと、到着した1番ホームには、早朝にもかかわらず見物客と思われる人々が集まっていました。ホーム上屋から下がる表示は「新百合ヶ丘・向ヶ丘遊園・新宿 小田原・箱根湯本・片瀬江ノ島方面」と、小田急線全ての行先。
2番ホームには発着案内など無く、ホームの先(小田急多摩センター方)で線路には車止めが設けられています。
多摩線に3か所ある隧道の内、西端の永山隧道を抜けて来た下り列車が1番ホームに到着します。一応2番ホームにも出発信号機が設置されていますが、線路配線の状況から2番線への入線は1番線へ到着後、一旦上り線に出てから折り返して2番線に入線しなければなりません。
この写真でお判りいただけるかと。1番ホームには1704×4が到着しています。右方は工事が進む京王永山駅で、京王相模原線の開業は4か月後の10月18日、京王多摩センターまでした。
1番ホームで折り返した4022×3が、渡り線を通り新百合ヶ丘へ向かいます。小田急永山までの暫定開業だったこともあってか、車両の方向幕には「小田急永山」の用意も無く、「新百合ヶ丘ー永山」の運板が掲げられていました。
新宿方4022には、前日の開業記念式典で使用されたヘッドマークが掲げられていました。
50周年を迎えた小田急多摩線。何度かに分けて、その歴史に触れたく思っています。
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