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2024年6月 3日 (月)

小田急多摩線開業50周年(2)

開業日の下り一番列車に使われた9404×6でしたが、この日はその後多摩線を走ることは無く・・・、若しかしたら6両編成の列車が多摩線に充当されたのは開業一番列車の特別運用だったようです。小田急永山駅折り返し時に「箱根湯本 江ノ島」や「新宿」の方向幕を掲示していたのが滑稽です。

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小田急永山駅を出て沿線を歩いてみることにして、永山隧道の向こう(黒川方)に行ってみれば、建設工事中の京王相模原線軌道部への立ち入りが出来たではありませんか。永山隧道を抜けて来た上り4000形4022×3を撮っておきました。

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新百合ヶ丘から来た1700形4連が諏訪隧道を抜けて来ましたが、その上部に「電車見橋」はまだありませんでした。

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諏訪隧道方まで足を進めて、小田急永山で折り返した1700形1703×4を撮った京王相模原線との間が、1991年の台風21号による土砂崩壊に乗り上げた2600形が現地解体された場所になるとは。

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丁度画面左が現はるひ野駅。京王相模原線が未開業だったからこそ撮れたアングルです。

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同じく左方が現はるひ野駅。1703×4が通過中の道路予定だった隧道は、その後の計画変更で盛土になりました。もったいない土木工事をしたものです。

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沿線撮り歩きしつつ黒川へ。黒川隧道を抜けて来た1703×4が、黒川駅停車の制動を掛けています。当時は6両対応だったホームは現在、架線柱1本分延伸。背後の隧道右手はその後、西光寺の墓地となりました。

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50年前の黒川-小田急永山の光景、当たり前ですが大きく変化したものだと驚きます。

 

 

 

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コメント

学生時代の反動か、この頃は小田急と縁遠くなっていました。開通初日の9000形6連は演出なんでしょうね。その後しばらくは低迷が続き、2連が走ったこともあると聞いています。

◆ モハメイドペーパー さま
そんな時代があったのですか!
2連の時代も含め、その後の模様も別途アップしたいと思っています。

ヘットライトが片眼だったり、不点灯が在りますがどう云う
意味があるんでしょうか。

◆ ぬか屋 さま
小田急顔の2灯式前照灯は、1灯予備という考え方です。
2灯点灯すると減光になります。

この頃の多摩線は緑が多いですね。6枚目の1700形のサイドビュー、窓の広いのが良く分かります。

◆ ぼっちぼち さま
「緑が多い」今でもそう思いますが、当時は原野の中に線路を敷いたという感じでしたね。
今は緑を重視した街になりました。

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