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2024年6月 7日 (金)

小田急多摩線開業50周年(3)

1974(昭和49)年6月1日の開業日こそ、当時最新鋭の9000形6両編成や4000形3両編成が走りましたが・・・。

それは一種の開業イベントだったようで、翌週にはABF車の4連が充当されていました。

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この日の編成は1909-1959-1960-1910他。

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それに2100形2103-2153+2104-2154編成も加わっていました。

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その後は乗客数の実態に合わせてABFの2両編成が充当されるようになってしまいました。

 

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小田急多摩センターまでの延長開業は1975(昭和50)年4月23日のこと。水曜日だったこともあり、残念ながら会社勤めの若い身。休暇も取れなかったのでその日は見に行くことができませんでした。

後日に撮った新百合ヶ丘ホームでの1910形、撮影日は不明ですが、乗客の服装から夏前だったと思われます。

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ABFの2両編成では1900形(1910形)での運行に良く出合いました。

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出掛ける都度に、新百合ヶ丘や多摩センターで撮っていました。多摩センターではお隣の京王相模原線では5000系の6両編成が発着しているのに、小田急はたった2両ですよ。

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こちらは永山を出た後狙い。この時代、前照灯ケーシングのカラーは黄/紺時代の紺でした。

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多摩センターから折り返してきたのを撮りましたが、2両編成では後が写りません(涙)。

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乗客もまばらだったので、乗ってしまえば車内では好き放題。側窓全開にして向こうから来るのも撮りましたが、小田急多摩センター駅を発車して間もなくのこの場所、今では右の丘は住宅地、さらに前方には歩道橋が掛けられて。

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2年ほどABF車2両編成の活躍が続きましたが、いよいよそのABF車も引退と言う時、ヘッドマークを掲げた4両編成の惜別列車が運行されました。この頃の前照灯ケーシングのカラーはアイボリーでした。

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小田急多摩センター駅の先、現在では唐木田までの本線となっている下り線に止めて、撮影会も開催されました。この時のヘッドマークは小田急が用意したもの(右)とOER3001氏が製作したもの(中央)の2種が掲げられています。

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鉄道友の会として企画した惜別記念列車、OER3001氏は乗車していたので外観は撮ることができませんでしたが、お仲間がしっかり沿線で記録してくれていました。

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五月台-栗平間の場所、今は住宅地となっていて、この時の面影は背後の送電鉄塔だけが頼りです。

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まさに多摩ニュータウンへのの足として建設された鉄道の、開業当時の苦しい姿。その後の変化を経て今日に至っています。

 

 

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コメント

一般人に取っては、へえ、小田急も多摩センターに行っているんだの状態。京王に圧敗でしたね。
周辺が開発され盛り返した?多摩センター自体に翳りが見える昨今、小田急の方が勢いがありそう。
先を読んでの死んだフリだったのでしょうか。

多摩線開業当初の周辺地域の宅地造成の具合が良く分かりますね。歴史的価値かな。

前々回の1700形もそうでしたが、1910形も先頭部は自連だったんですね。
中間車はどうだったのですか。

◆ シグ鉄 さま
多摩ニュータウンへの鉄道は小田急が早かったのに、奥が深い(小田原、藤沢方面)小田急としては新百合ヶ丘から新宿の輸送量も限界状態だったため、多摩線の輸送を抑制していたようです。複々線化が成った今では漸く、通勤時間の新宿到達は京王より早くなっています。


◆ ぼっちぼち さま
歴史的価値、ありがとうございます。開通当時はまさか、この沿線居住になるとは考えても居ませんでしたが、住んだからには撮りだめていた成果ですね。


◆ ぬか屋 さま
ABF車は1910形まで先頭は自連、中間は棒式固定連結器でしたよ。
2100形から日鋼式密自連となりました。

ちょっと留守にしていて、コメントが遅くなりました。ABF車の連結器ですが、昭和37年頃の図面ではデハ-サハ間が密連、サハ-サハ間が密着自連になっています。当時は2両単位で検査入場していたので、1900-1950(1700の場合もあり)に1600形の2連を連結して営業運転している姿も時折見かけています。

◆ モハメイドペーパー さま
補足情報をありがとうございます。
そう言えば、1911~1914-1961~1964の中間は密着連結器だった時代を覚えています。
残念ながらその他の状況は既に記憶にありません(涙)。

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