電車を模した飲料自販機について触れましたが、何と郵便ポストにも有るようです。
古くはこれ、品川駅ナカの設けられたポストがクモユニ擬きになったのはいつだったでしょうか。画像は2005(平成17)年12月にガラケーで撮ったものなので画素数も粗くお見苦しいですがご参考まで。
新京成の自販機画像と共に、八千代運転所さまが斯様なものを送ってくださりました。ポストの側面が電車の正面になっています。
品川駅のように線路と車輪は有りませんが、反対側も顔。形式、自重等の標記はありません。側面に描かれた窓には格子が描かれている拘りようです。
この洒落た郵便ポストはここ、郵便局が同居するJR江美江見駅の駅前に設置されているとのことです。
見ていて実に楽しいですが、この土地の方で無い人が、郵便物を投函しようとするとき、果たしてここにポストが有るよと知らせることが出来るでしょうか?
以前、銀座通りの郵便ポストが、こんな色に塗られていたことがありました。
景観を重んじてのことからだと思われますが、どうだったのでしょう? OER3001氏としてはユニバーサルデザインの視点から、郵便ポストはアカであるべきと思っています。
前々回、ここでロマンスカー意匠の飲料自販機を取り上げたところ、八千代運転所さまからご親切に新京成もあるよと画像を送られました。北習志野駅のホームに、8801-1が堂々と鎮座して居られます。こちらは並べた自販機2台で1両を模しています。
横に回って見ると・・・、側扉は売店の入口だそうで。
飲料自販機をラッピングして電車に見立てるって、楽しいものですね。八千代運転所さま、ありがとうございました。
しかし売店と一体化するとなると・・・、どうも元祖は藤沢駅のこちらでしょうか。
画像は14年前の2007(平成19)年の時で、まだ出来たばかりで綺麗でしたが、今は少々お疲れになっているかと。
友人ノッチさんから斯様なイベントがあることを知り、わざわざ出掛けるべきか悩みながらも、客車内に入れるということで出掛けることにしました。
ところが、なかなか手強い。簡単には行かせてくれません。この謎解きとかいうものにチャレンジしなければならず、あの東大出の柔らかい頭が必要です。謎1だって「テイキケン」と判明するのにかなり時間が要ったし、これ全部解くのにいったい何分必要なのか?
でもなんとかクリアして、1872(明治5)年10月14日、新橋からここ横浜(現・桜木町)に走った列車に。
1号機関車と呼ばれる機関車ですが、展示されているのは110。これは当時イギリスから輸入した10両の機関車の内の10号機で、後に110形とされたものです。
その当時の客車というのがこれ。レプリカではありますが、念願叶って車内に立ち入ることが許されました。他の見学者が居なくなるのを気長に待って撮れました。
天井照明はガス灯を模したLEDが、いかにも頼りなく、明るさ不安定な様子を再現していました。
だ~れも居なくなったところでこの一枚。
機関車にしっかり連結されて、桜木町に展示されています。
この客車の側面には良く判らない表示。しかし英語標記をみて解りました。二等車ですから上から2番目のクラスだったようです。
そうですよね、この背もたれの無いロングシート状の客席。
下等車だと前後方向に移動できない左右の側戸から乗降する向かい合わせ座席でしたからね。なんだかこんな模型もイイものだななどと・・・危ないアブナイ、明治の汽車に手を出したら大変大変。
前回の東京オリンピック“TOKYO 1964” の開会式は、忘れもしない10月10日。統計的に“天気の良い日”として決められたからでした。IOCが今のような商業主義ではなく、米国の都合に合わせる必要も無かったからこそで、前日までの雨が止み、青空にブルーインパルスが描いた5色の輪を見たものでした。
そんな1964(昭和39)年10月に、父が撮影していた写真の中から田端機関区を見付けました。EF80 34と読めるようです。
もう一枚はEB10の1号機、パンタはPS13ですね。
父は何をしていたのか、仕事では結構外回りをしていたようで、その途中で撮った東京のシーンが興味深いです。画像は何れもハーフサイズカメラによるもので、画像修正ソフトで加工しています。
立派な建物の中に保存されたC56 31号機を見てきました。
日頃はあまり近寄りがたいとは思わない靖国神社の中にある遊就館。1階入口部分だけは無料で見学できると聞き、出向いてみました。
ご存知のファンも多いことでしょうが、第二次世界大戦では90両のC56が南方に徴用されたそうで、この31号機は七尾機関区所属だったと。
あの泰緬鉄道の開通式に参加した機関車と紹介されています。
1977(昭和52)年までタイ国鉄で活躍した後、関係者の尽力によって1979(昭和54)年に「靖国神社に奉納された」と紹介されています。タイ国鉄時代の連結器と、なんだかよく判らない空気管が付いたままの姿です。
動輪周りは良く研かれていて今にも動き出せそうです。
「神社に奉納された機関車」ですから、なかなか理解しづらいこともありますが、鉄道ファンとして見学できることにはそれなりの価値があると思います。
説明パネルには美しそうな文章が記されていますが、全長415㎞の泰緬鉄道建設は1年3ヶ月という早さ。これに鉄道第5、第9聯隊を中心に、連合軍捕虜や現地住民など約17万人が従事したということを知ると、随分酷いこともしたのだろうと、心が痛みました。
保存機関車を見て、複雑な思いになり、次に向かった場所は「昭和館」でした。
先日、東急線ワンデーパスを使って出掛けた折、乗り換え以外ではほとんど乗降した記憶が無い駅で下車してみました。NHK大河ドラマで注目が集まる渋沢栄一らによって開発された高級住宅地、世田谷区だと思っていたら大田区だったのですね。
小田急沿線で育ったOER3001氏にとって、「調布」は1913(大正2)年の京王電気軌道開業以来京王の駅だと信じていましたが何と、その10年後の1923(大正12)年、目黒蒲田電鉄開通の時の駅名が「調布」だったとか。1926(大正15)年1月1日に「田園調布」に改称したということです。
1923年から1926年までの3年間、多摩川左岸に2カ所の「調布」が存在していたことを知りました。
東横線、目蒲線の地下化に伴って1990(平成2)年に解体されたマンサードルーフの旧駅舎は、2000(平成12)年に見事に復元、街のシンボルとなっています。
マンサードルーフと言えば小田急にも。向ヶ丘遊園駅は1927(昭和2)年開業以来の駅舎が現役です。
とは言いますが、1997(平成9)年5月撮影の画像とは少々異なるようです。当時は2階窓下の立体感、窓左右に2本づつ縦に装飾があったのですが・・・。
折角大切に残すなら、もう少し心遣いが欲しかったのですがね。東急さんの復元は立派です。小田原急行鉄道の社紋を残していることだけは良しとしましょうか。
因みにこちらを向いている女性は、面識の無い単なる通行人でした。
1966(昭和41)年6月のようです。 新宿駅3番線に停車するクハ76 057を最後とする37M列車、甲府行を撮っていました。 勿論カメラはハーフサイズのCanon demiなのでアップに耐える画像ではありません。
ただこれだけの写真なのですが・・・、クハの正面背後に見える“Keio”の文字は京王線新宿駅上の京王百貨店で、画面右上には、その後小田急百貨店の一部となる地下鉄ビルが建設中(帝都高速度交通営団建設)で、その間にはまだ小田急百貨店の本館となるビルの姿は見えません。
現在小田急百貨店となっているビルを含む一体が2029年、48階・高さ260メートルの高層ビルに生まれ変わるというニュースが発表され、今の西口開発の歴史を見て育った立場として年輪を感じます。 ちょうど先週から書店に並んだ雑誌に、興味深い記事が掲載されました。
著者は建築家の乾純氏。 多面的に活躍されて居られる方のようですが、まさかあの方と同姓同名の方がいらしたとは驚愕です。
その雑誌がこれ、なかなか読み応えある内容です。
鉄道好きには駅は魅力的な場所ですが、「駅」の捉え方だけでも多くの視点があります。 その駅について、コロナ禍で利用が自粛されている折、知識を広め、深めてみるのも一興かと思います。
最近のコメント