最古の小田急自作車両、小田急2600形NHEの5両編成を走らせたOER3001氏は、最新の小田急自作車両も持ち込みました。1/80の縮尺ではないので、ここで走らせることはできないのですが、本堂の片隅で終日に渡り展示させて頂きました。
運転台のマスコン&ブレーキ弁、椅子にも目を止めて頂くことができました。
床下機器として、MM解放スイッチも備えているので、こうして室内灯などの灯具類を点灯させての展示が叶います。クロスシート肩部の掴みや袖パイプも効果的でした。
大きいサイズの模型は、置いておくだけで存在感がありますね。0番作って良かった!
一方16番ゲージでの小田急最新自作は新5000形。10両編成には存在感があります。
2019年4月19日付で福島県指定重要文化財となったご本尊「華厳の釈迦坐像」さまの目前を快走です。
それにしてもこの車両、実車もそうですが正面の形状から反射して撮りづらい対象です。
といううことで2日間にわたる“修行”は、今年も無事に勤めることができました。
毎年開催されるこのお寺の運転会は今回が21年目、20回目となりました。新白河駅長にもご来場いただく開通式が本堂で執り行われます。
開通式が終わると、2日間にわたる修行の開始。無心に鉄道模型に取り組み、その楽しさを来場者にお伝えするのです。
今回OER3001氏は、現存する最古の小田急自作車両である2600形NHEの5両編成(2600形登場時は5両編成でした。)を走らせます。
製作は中学3年生の終わり、高校進学前の春休みでした。小丸彫刻刀と“ボンナイフ”で窓抜き。塗装は刷毛塗りというもの。
当時はパーツも少なく台車はDT24、PS16パンタとともに今は無きカワイモデル製品を使用。L-3形モーターと17:2ウォームギア減速インサイドギア駆動の動力は中間1両のみでも、このレイアウトの上り勾配も問題なく走ってくれました。
かわって国鉄101系の基本7両編成。これも相当古いもので、小学生時代に買っていた真鍮未塗装車体や小高のペーパーキット、メーカー不詳の塗装済車体などを組み合わせた、思い出深い半世紀以上昔の編成。
模型では2M5Tで、快調に走ってくれました。
古い模型の困りどころは、切れた米粒球の交換が成らないことです。球切れした電球をLEDにするには、配線を全て一からせねば。今更その作業をする必要があるか?という気にもなります。
されど所有する模型は人生の思い出だけに、たまには昔のままで走らせてみたかったので、お寺の本堂は最高の舞台だったかも知れません。
7回目となるこのシリーズ、いい加減にしろという声も聞こえそうですが・・・、そこは勝手気ままに進めるOER3001氏の自由ということでお許しを。一応最終回と致しましょう。最終回は小田急を支えた裏方の車両です。
エンドレスの内側の留置線には珍しい車両並んでいます。手前は大野工場で入れ替えを担っていたデキ1050(EB1051)、アダチのバラキットを組みましたが、小田原方には連結器アダプターを載せる台などを付けています。その向こうは経堂研修所にあったデハ1406、左は振り子試験車になったクハ1658、ともにペーパー自作です。
1658は新宿向きだったのを振り子試験車に改造する際に方向転換、小田原向きになりました。
この車両はとれいん誌1975年6月号に掲載されています。実車では無かった1300形との連結ですが、1658の車体が傾斜して様子が良くわかります。
模型で振り子作用をする工夫について記載されていました。
そこにはあの、小田急の大御所・生方良夫さんが寄稿してくださっていました。
展示したこれらの車両の向きは全て、新宿向き/小田原向きを統一して、実車と齟齬がないように心掛けています。
時代が違いますが、検測車両のクヤ31も加わりました。
この日は軌道検測は無いので、検測用パンタを下げて停められています。
売り側のエンドレスに、デキ1010(ED1012)が牽くホキが走りました。アダチのバラキットを組んだデキは、晩年のPT42パンタ、列車無線搭載の姿です。
ホキ300他はTOMIXから発売されていたホキ800がベース。ペーパーで製作した車掌室を載せたホキフ300を両端にした3両編成は、日中走ることは無かった筈で、相武台前のバラスト積載場所に停められていました。
MNK氏が持ち込んでくれたデニ1100(緑)、デニ1000(赤)、デキ1020と有蓋車、終戦直後のデハ1600他の週末温泉列車などと共に、ヤードを賑やかにしました。
運転しない車両も、運転会では重要な存在なのでした。
88万アクセスに到達した7月24日から29日目となる8月22日午後、89万アクセスに到達しましたが、“89”に因む画像を見つけられなかった(涙)ので、小田急ワールドの運転会の6回目。
2200形登場の1954(昭和29)年に於ける特急ロマンスカーは吊り掛け式の1700形3両編成でしたが翌年、2200形の制御方式を使った2300形4両編成の導入を経て、1957(昭和32)年に登場したのがスーパーロマンスカー“SE車”3000形でした。
7000形LSEとの2ショットはさながらロマンスカーミュージアム。高架のホームにはMKW氏作の御殿場線直通のキハ5101他が。
OER3001氏作のSEは、地平の外周エンドレスをミュージックホーン鳴らして快走します。
高架複々線区間は現行の4000形。ロマンスカーミュージアムでの光景さながらです。
一旦、MKW氏の2600形が居る高架ホーム下に停車すると、隣にはMKW氏所有のエンドウ製品が。
原型SEと改造SSEを並べて記念撮影。
SEは「乙女」、SSEは「はこね」。こんな光景はロマンスカーミュージアムでも叶いませんよ。
実に楽しい運転会でした。
小田急に20m車が導入されるのは戦後の国鉄63形電車の割り当てによる1800形に始まりますが、その後は17m車が基本。本格的に20m車となるのは1964(昭和39)年登場の2600形からです。
車体幅を2,900㎜に拡幅した4扉の大型車体は当時我が国最大サイズ。2400形HE車の思想を継承したことから“NHE”と呼ばれました。当初は各駅のホーム最大長が17m車6両編成対応の105mで、20m車5両編成までしか対応できなかったため、T(2750)を除く5連で登場。Tを増結6連化されるのは1967(昭和42)年からでした。
我がモデルは6連化後の姿、谷川の真鍮バラキットを組み立てたのですが、正面屋根Rの修正には相当苦労しています。
新宿駅の大改良工事完成(小田急全館完成)を記念しての特別塗装(お買い物電車)として製作。カントが付けられた曲線部を行く姿は格別です。
一方、この塗装時代には高架線を走る区間は無かったようですが、まあイイか。
古くからの友人・MKW氏がペーパー自作した編成とも共演。
近郊区間NHE全盛時代を思い出しつつ、豊かなひと時を楽しませて頂きました。
2200形から2220形、2300形、2320形までのオールM車をABFM車と称しますが、その後に登場するのは経済性を重視してMT比を1:1とした“High Economical Car=HE車”2400形でした。(右方)
当時の標準だった17m車4両編成長70mという条件下で、M車の粘着性能を最大化するために採られた措置が、先頭Tcが16m、中間Mが19mというアンバランスな編成。車輪径も軽量化するTcは762φ(模型で9.5φ)、Mは910φ(11.5φ)。
走行したのは新塗装化されたバージョン、旧塗装と新塗装の2200形4連と併結した8両編成の急行として走らせます。
この時代、相模大野で箱根湯本行と片瀬江ノ島行きの分割・併合がされていたので、模型ではKDカプラーを採用しています。2400形HE車は、1960年代~70年代の主力車両だっただけに、OER3001氏は3編成も制作しています。
小田急の車両がなかなか出場させられない事情もあって、先の横浜市・野毛地区センタ「夏休み!鉄道フェスタ~鉄道模型運転会」公開運転会に続き、友人宅での運転会へは日頃と毛色の違った車両で参加させて頂きました。
1970年代の天賞堂製、EF62に“軽量客車”という重量客車を牽引させました。EF62割れたホイールギアを交換してから初の舞台でした。工房5丁目さまのお陰です。
カニ38、オユ12、ナハネフ11、ナハネ11、オロネ10、オシ17、ナロ10、ナハ11、ナハㇷ11で構成した11両編成を牽かせて。重厚な音を響かせながら、平坦な線路では牽引力不足という心配も無用、快調な走りが楽しめました。
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