想い出の光景

2025年6月19日 (木)

小田急撮影に-回想編

鶴川~玉川学園前間での撮影記を2回続けましたが、この場所も時代と共に随分開発され変貌しました。

6月15日の記事でモハメイドペーパーさまから「昔、2220形でここを下り(上り列車)、鶴川のカーブの手前で減速する時の電制音に痺れていました。」とコメント頂きましたが、その当時の光景がこれです。

この画像は新塗装への移行が進む時代、新塗装2220形+旧塗装2220形に新塗装2400形を連結した下り急行が勾配を上って来る光景。

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まだ田畑が広がっていた中、中央右側では造成が始まっていました。NSE背後の丘には数件の住宅が見える程度でした。

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それが、約20年経つと丘は完全に住宅地となり、先の造成地は納豆生産工場になりました。

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この日は営団千代田線から江ノ島行の臨時列車「METORO & ENOSHIMA」の撮影が目的でした。

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この場所も今は和光大学のテニスコートとなって立ち入り不能。「METORO & ENOSHIMA」の後部右側が納豆製造工場、そして左側が住宅地となり、前回掲載した画像の撮影地です。

冒頭の画像から55年、改めて小田急沿線の都市化、人口増大に驚かざるを得ませんね。

 

2025年5月 4日 (日)

玉電山下の今昔

「玉電山下」は今、玉電が取れた「山下」になっています。小田急線「豪徳寺」の下に位置するので、電車を待つ間に上りホームから何度も眺めたものです。

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この日久しぶりに行ってみることになりました。

複々線になり、10両分のホームになって、網入り窓ガラスを通してしか眺められなくなってしまいました。

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玉電から世田谷線になり、ホームも嵩上げ。上屋も延長されて、電車の姿も見づらくなりました。

この東急世田谷線は3日前の5月1日に、開通100周年を迎えました。記念ヘッドマークの掲示や「なつかしのギャラリートレイン」も31日まで運行しているとか。あらためて行ってみる必要がありそうです。

 

一方、小田急の「豪徳寺」52年前の夕刻の光景、6両編成の2600形が経堂に向かって発車して行きました。

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先日は経堂から飛ばしてきた10両編成の3000形が、急行線を通過して行きました。

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昔に撮った写真を思い出して、その場所を再訪してみるって、完全に歳を取ったと言うことでしょうね。

 

 

2025年4月28日 (月)

常磐線原ノ町

2011(平成23)年3月11日のあの大震災では、津波と原発事故で多大な被害を被った常磐線。暫くの間は列車が走れない歳月がありました。

福島県南相馬市原町区の「原ノ町」駅に降りたのは何年ぶりだろう?

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初めて来たのは、平(現・いわき)~仙台間を担っていた平区所属のC62牽引の急行「十和田」に乗るために来た時だった。乗車車両はスハフ42 2072だったと記憶。

深夜の原ノ町駅で給水するので機関士に断って、ホーム先端を降りて撮影することもできた優雅な時代。

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これが原ノ町での深い思い出でした。

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この光景は今、どうなっているのか確かめたくて、下りホームに行ってみましたが、58年の歳月を重ねると・・・。

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ホームも少し延伸されていたのかも知れませんが、広々した構内だけが当時と同じようです。

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C62の急行「十和田」が出て行ったホームから、特急「ひたち」が発車して行きました。

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齢を重ねると、若い時の思い出を辿ってみたくなるものです。短い時間でしたが、ここでも良きひと時を楽しみました。

 

2025年4月18日 (金)

サクラの思い出

4月も半ばを過ぎてソメイヨシノは散りましたが、サクラの種類は多く、まだ咲き誇っている種類もあります。

モノクロ写真と言うことが残念ですが、サクラを撮った1枚がありました。

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ホントにサクラを撮ったのか?

優等列車が停まらない駅のホーム、白いハイソックス、テニスラケットを抱えてサクラの下で各駅停車を待つ一人の女の子に眼が行っていたかも知れません。ちょうど5000系の特急が向こうから。

ここは後年線路も地下に潜り、女の子も60代になられたことかと。二度と得ることができないある日の光景でした。

 

2024年3月21日 (木)

新宿駅西口

新宿グランドターミナルの実現に向けた基盤整備が進む西口、2年前まではこんな風景でしたが・・・。

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西口を象徴する風景はすっかり変わって来ました。3月8日時点の記録です。

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地上に上がってみれば、小田急百貨店の本館はすっかり解体され、東口のビル街が見渡せます。

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左が小田急ハルク、右に京王百貨店。その真ん中にあった小田急本館の姿は無く、東口のルミネ エスト(旧新宿ステーションビル)が見通せます。

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解体前の光景は、海老名のロマンスカーミュージアムのジオラマで今も見ることができます。(3月6日)

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東側からの光景ですが、南口(左側)のミロードも、まもなく解体工事が始まります。

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渋谷も大工事が進み、新宿も。池袋は西武百貨店がヨドバシカメラ資本が投入されてと、東京のターミナルがどんどん変貌して行くようです。楽しみというより・・・寂しさを感じます。

 

2023年11月23日 (木)

南新宿の思い出

前回の「南新宿で」に頂いた、この地に思い出のある方々からのコメントに嬉しく思い、それならと調子に乗って記録を辿ってみました。

最初は1968(昭和43)年5月の夕方近く。現在解体中の小田急百貨店ビルを背後に「あしがら」が新宿1号踏切に差し掛かります。NSEはまだ冷房強化工事施行前で、屋根上がすっきりしていた時代です。

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この時はNSE(3100形)よりNHE(2600形)のこの色を狙っていたと思います。

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NHEは各停に投入されることが主だったので、待てば出会える。何気なく撮った南新宿での1コマから、当時の状況が蘇るようです。

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新宿1号踏切には踏切保安掛が常駐、迫り来る列車に振っている旗が確認できますが、これも古の思い出。

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続いて1969(昭和44)年の記録。地下ホームから出て来たのは3両編成の4000形ですよ。大都会のターミナルに3両編成が発着していたなんて。左側の貨物ホームには1300形が停車中です。

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この年の積雪は2月ではなく3月だったのですね。吊り掛け式駆動のABF車も優等列車で活躍していたのです。1600形×4を先頭にした8両編成が、小田急本社ビルと山野ホールの間を新宿に向かいます。

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後は1900形でした。大きくカーブしたホームは前後を踏切に挟まれ、大型6両編成(2600形)は上下列車とも先頭車両はドア締め切りでした。

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時を経て1973(昭和48)年7月、長編成化のための新宿駅改良工事たけなわ。地下ホームは閉鎖され、地上3線で全ての列車折り返しを行っていたときでした。地下線アプローチを長くとるため、路盤の掘り下げが行われています。

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同時に新・南新宿駅設置工事が進みますが、7月時点ではまだホームの基礎工事。

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2か月後の9月になってホームのコンクリート板が置かれ始めました。

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それから3カ月で完成するとは、早いものですよね。12月21日に新駅移転となりますが、その5日に前南新宿駅下りホームから撮った写真。こちらに向かって来る列車の位置に、新駅が確認できます。

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この日は日没後でしたが、フィルムをトライXにして奮闘していました。小田急本社ビル向かいの南新宿駅舎。当時は代々木八幡や代々木上原、東北沢などと似た、昭和の高度成長期に造られた鉄筋コンクリート製でした。改札口と出札窓口外の自動券売機があった時代だったのですね。

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駅舎左の壁面に、移転のお知らせが掲示されていました。

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小田急本社ビル前の新宿2号踏切から、その構内を記録しておきました。右が下りホームです。

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踏切を渡って下りホーム方から上りホームを。右手前には踏切保安掛が常駐していたのです。

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最後に上りホーム先端から参宮橋方向を。

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こうしてみると、ついこの前のことと思っていても、半世紀前と言う時代はいろいろな意味で今とは格段の差があるものだと、再認識させられてしまいます。

 

最後に新・南新宿駅での思い出を。1999(平成11)年7月16日、この日で引退となる3100形NSEの最終列車を撮りに行きました。

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振り返って後追いを1枚。下りホーム最後部の危ない所で撮っていた輩が居たのですね。黄色い線どころか白線まで超えて。

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オマケは今の南新宿駅を。10両編成対応のホーム幅は狭いものの、全体に上屋が設けられた姿になっているのです。

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上りホームから下り列車を撮ると、背後は山野ホールのガラス張り外壁が。

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駅舎は線路下に慎ましくです。

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南新宿、つい調子に乗ってしまいましたが悪しからず。

 

2021年9月19日 (日)

想い出の光景:32

八王子と高崎を結ぶことから名付けられた八高線、しかし正式には八王子-倉賀野間92.0㎞を結ぶ路線です。

OER3001氏が初めて八高線に乗ったのは、高崎の親戚宅に行く際に、通常は高崎線の80系で向かうところ、父親がたまには珍しいのに乗せてやると行って、多分キハ17に乗った時と思うので1960年代前半のことだと思います。

それが今では「八高線」とは言えど、八王子から高崎に直通する列車は無く、八高線の雰囲気を味合うには非電化区間の高麗川以北でなければなりません。

1968(昭和43)年3月に高麗川から南へ歩き、蒸機の撮影をしていました。

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この場所、高麗川駅からそう遠くは無い場所の筈なのですが・・・、すっかり開発が進んだ今は、残念ながらこの場所が特定できません。

 

2021年7月29日 (木)

想い出の光景:31

当シリーズ前回の神田駅で撮った101系と103系の山手線、永くお付き合い頂いている巨匠からのコメント、ご希望を受けての続編として、京浜東北線を。

山手線の101系の103系への置き換えを進める一方で、京浜東北線への103系投入が始まりました。

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しかし主力は依然として新性能電車ではない吊り掛け車でした。クハ79先頭の鶴見行きが目前に迫ったとき、山手の101系がやっと発車しました。

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こちらは東京へ向けて走り去る磯子行き。最後部もクハ79の8両編成。何故かクモハ73アタマの写真は、このフィルムにはありませんでした。

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先の東京オリンピックから3年後のこの頃、東京の空はまだ広かったです。

 

 

2021年7月28日 (水)

想い出の光景:30

まだ高校生だったこの日、当時のカレンダーを確かめると木曜日。学校帰りだと思っていたのですが、春休み期間ですね。模型制作記事をある出版社に届ける序でに、15:30前後に神田駅で撮っていました。

カメラは東京駅方向に向けています。

「山手」と掲示されたバックシーンはカナリヤ色の101系、それとすれ違いでこちらに向かって来るのはウグイス色の103系。山手線の車両が103系に置き換え進む時代、京浜東北線はぶどう色の73系の天下でした。

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今では画面左に上野東京ライン、東北・上越・北陸新幹線が行き交う2階建ての高架橋が構築されてしまい、すっかり空が見えなくなってしまいましたね。懐かしい光景です。

 

2021年7月13日 (火)

想い出の光景:29

場所当てクイズです。ここ、ど~こだ?

下りホーム最後部から上り電車を。

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上りホーム最前部から下り電車を。

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もっと撮っておけば良かったと、後悔しても始まりませんね。

 

 

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