過去vs現在

2024年5月 8日 (水)

半世紀の変化

冒頭からクイズ。フィルムが変色してしまい見苦しいですが54年前の1970年、2600形NHEと3100形NSEが離合するこの光景は一体何処でしょう?

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その先は斯様な光景でした。カーブするプラットホームに建つ駅名標でお判りですね。

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ほぼ同じ場所での、とは言っても高架化されていますが今は斯様な感じです。

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メトロから小田急への乗り換えの合間を利用して、EXEや2000形を撮っていました。

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千代田線との相互直通運転が開始されたのは1978(昭和53)年3月31日でしたが、その前日に式典が行われました。

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この頃は未だ比較的楽に撮影できたのですが、今では保安設備も多くなり、電線や設備など“邪魔”が増えてしまいしたが、何とか小田急&メトロが捉えられないかと頑張ってみますがなかなか上手く行きません。

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仕方ないのでふと、上に目をやると・・・、これはJALのA350ですか、機体に大きく書かれているのですね。

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続いて同じくJAL、こちらはB787ですか?

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いやいや、次々にやって来るではありませんか。今度はAir DoのB767が。

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駅も変わりましたが羽田空港も様変わりしたことによって、羽田に降りる航空機が次々に上空を通るようになったようです。

 

 

2024年5月 4日 (土)

国鉄からJRへ

OER3001氏の世代にとってはJRより日本国有鉄道かな。いろいろ問題があったけど、輝いていた時代もありました。

所謂新性能電車の礎となった101系、国鉄だったこの時は、既に中央線には201系の投入開始に伴い他線への転籍も行われ、南武線も黄色い101系に統一されていました。44年前の今日、5月4日の撮影です。

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その南武線も101系から103系、205系、209系の時代を経て、JRとなっている今はE233系8000番台が活躍します。

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そもそも国鉄、JRの通勤型車両を真面目に撮ってないOER3001氏ですが、なぜか同じアングルで撮っていました。この場所(南多摩ー府中本町)に行ったのは、何かのついでだった筈です。

 

 

2024年4月10日 (水)

京都駅の変化

写真整理していて見つけた京都駅。半世紀の変化が確認できました。

50年前の1974(昭和49)年は未だ市電がありました。この写真に市電乗降場は写っていませんが、右のバスの向こうにありました。駅舎は一部に8階の塔のような部分があったものの、他は3階建てでした。

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昨年秋に撮った画像ではこんな状況に。

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だいたい駅舎など、OER3001氏にとっては“序での一コマ”なのでしっかり撮ったものではありませんが、こうして比較してみると様々なことが思い出されるものです。

 

 

2023年6月30日 (金)

過去vs現在-14

新宿から歩いて「春の小川」歌碑を取り上げた日、参宮橋駅を跨ぐ「参宮橋」の上から下を行く電車を撮りました。

手前のビームが立派過ぎて視界に邪魔ですが、2020年にそれまでの跨線橋をリニューアルして東口を新設されています。

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ありました、48年前に撮っていたほぼ同じアングルが。

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正月の明治神宮参拝客が押し掛けるときくらいしか混雑することが無かったのんびりした駅。ホーム上屋も2両か3両分しか無かったのに、今は10両分。周辺はすっかり変わってしまいましたが、線路位置他、昔の面影を留める貴重な駅と言えるかも知れません。

 

2022年11月19日 (土)

過去vs現在-13 千歳船橋

OER3001氏が小田急に興味を持つようになった地がこの駅でした。今は大俳優だった森繁久彌(1913-2009) の胸像が、高架下に設置されています。これは、一周忌にあたる2010年に、東京都世田谷区が千歳船橋駅から旧森繁私邸へ抜ける区道を『森繁通り』と命名したことを受け、氏が『屋根の上のヴァイオリン弾き』で演じたテヴィエ役姿の胸像「テヴィエ像」として、2014年に設置されたものです。

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駅の北東0.5㎞ほどにあった氏の大邸宅は、OER3001氏が住んでいた場所の直ぐ近くだったことから、ヨットが置かれていた庭で遊んだ思い出があります。招き入れてくれたのはご子息の一人だったようです。

その千歳船橋駅、北側(山側)から見た今の姿です。胸像の設置場所は右端の高架下です。

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OER3001氏の記憶に残る千歳船橋駅の姿はこれ。

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学校から帰るとここへ行き、行き交う電車を見ていて・・・。駅員さんもいつしかその小学生を覚えてくださり、事務室内に招き入れておやつをくれたりしました。駅や駅員さんが地域に溶け込んでいたという良き思い出です。右の交番には、拾った10円玉を届けた思い出でもあります。10円玉を預かったお巡りさん、「ぼく偉いね、ありがとう。これしっかり預かるから、ご褒美に・・・」と言って自分のポケットから取り出した10円玉をくれました。

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そんな素晴らしい思い出は、ほぼこの時代。ボルダ版フィルムの玩具カメラによる撮影で、近年着色してみた画像ですが、ここに写る跨線橋や上屋は、高架化工事まで健在でした。

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高架化工事開始直前に訪れた時は、ホームこそ延伸されていますが雰囲気は昔のまま。営団6000系も古の記録になってしまいました。

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高架複々線となった今は、同じようなアングルで撮ろうとすると、8両編成の2000形をはじめとして10両編成の最新鋭5000形まで停車します。

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通過列車の撮影にも良い場所ですが、床下機器の撮影にも適する駅になりました。是非一度、電車の撮影に訪れたら改札を抜けて、『森繁通り』の散策をされては如何でしょう。

 

 

 

2022年4月 5日 (火)

過去vs現在-12

久しぶりに「過去vs現在」。フィルムの変色で見苦しい画像ですがお許しください。

30㎞/hの徐行予告標識があるのは、2回目の新宿駅大改良工事が進んでいた時代。2872先頭の準急・江ノ島、今は引退して見ることが出来ない車両と、新宿発では消えた行先。後方に見える跨線橋は、1973(昭和48)年12月20日まで使われていた旧南新宿駅のもので、取り壊し前です。参宮橋方に150m移転した、新しい南新宿駅上りホームからの撮影でした。

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ほぼ同じ場所からの現況は、車両はステンレスの3000形に代わり、延長されたホームには上屋が設けられたため、空が見えない景色になってしまいました。

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空を仰ぐには広角でなければなりません。そうすればニューヨークマンハッタンのエンパイヤステートビル擬きのDocomoビルを画面に入れることも可能です。

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1日平均乗降客数が3,000人強と、小田急の中では足柄駅と並ぶ最下位クラスだそうです。

 

 

2022年2月15日 (火)

過去vs現在-11

世田谷線を撮りに行ったので、こんなアングルも比較してみたくなりました。

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手元に上の画像を用意せずに行ったので、立ち位置が右に寄ってしまったようですし、季節もカメラも違うので、なかなか同じようには撮れないものです。

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それでもここ、山下駅から三軒茶屋方向を見る景色には、車両が高床80形から低床300形に代わった位で。23年間での大きな変化は無かったようです。

 

 

2022年2月14日 (月)

過去vs現在-10

今回は東急世田谷線・松原駅での一コマを。

そもそもこの1973年2月の一枚は、世田谷線の撮影目的で出掛けた訳ではなく、序でに撮っておいたという一コマですが、今になって見ると、道路から2段だけ高くなったプラットホーム、1両分しか無かった木製上屋、ステップを上がる車両と言うのも当たり前の想い出です。

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それから49年、この場面の今を撮りたくなって出掛けて来ました。

一段嵩上げされたプラットホームにはスロープで、上屋はプラットホームへのアプローチ部分を含めて全長にわたる鉄製に。車両はご覧の通り。

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背後のビルの1棟だけが、当時と変わらぬ姿を残していました。

 

2022年2月13日 (日)

過去vs現在-9

50000形VSE乗り納めとして昨日掲載した箱根湯本、ほぼ同じアングルで、34年前には就役間もない10000形HiSEを撮っていました。

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前面展望の連接車というのが小田急ロマンスカーのカタチだったのが、VSEの引退と共に消滅するのは悲しいことです。

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箱根湯本駅周辺もつぶさに観察すれば、線路には保護柵が設けられて電車の下回りが遮られるようになってしまいました。石垣も手前に植栽が成されて隠れてしまいます。

さらに10年遡ること44年前は、ロマンスカーは3000形SSE車と3100形NSE車の時代。箱根湯本に到着しようとする花形の3100形NSE車を撮っています。

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先日の発車して行ったVSEの後ろを狙った一枚とほぼ同じアングルです。

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線路保護柵、石垣前の植栽に加えて、架線柱、道路標識など、変わったものを探してみるのも楽しいです。

 

2022年2月11日 (金)

過去vs現在-8

今は高架複々線となった豪徳寺駅。1973(昭和48)年9月の記録がありました。まだ夏の強い陽射しのため、ケープアイボリーの5155の顔が飛んでしまっていますがご勘弁を。8両編成の急行、後方は2400形です。

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同じ場所の今、とは言っても冒頭に記したように高架複々線となっているのでだいぶ変化しましたが、線形はほぼ同じです。同じ5000形を名乗る2代目5456が急行線を進んで来ました。

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下りホーム先端から経堂方向を臨むと、9004先頭の急行が、経堂検車区から始まる上り勾配を飛ばして来ました。まだ96芯ジャンパを使っている時代ですね。

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複々線となった今は、線路に勾配が無くなったようです。検車区は喜多見に移りましたが、検車区跡の場所には留置線が設けられ、出入りのポイントが設けられています。

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過去の写真を見て、同じ場所の今を辿るのが面白くなっています。

 

 

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