OER3001氏が小田急に興味を持つようになった地がこの駅でした。今は大俳優だった森繁久彌(1913-2009) の胸像が、高架下に設置されています。これは、一周忌にあたる2010年に、東京都世田谷区が千歳船橋駅から旧森繁私邸へ抜ける区道を『森繁通り』と命名したことを受け、氏が『屋根の上のヴァイオリン弾き』で演じたテヴィエ役姿の胸像「テヴィエ像」として、2014年に設置されたものです。
駅の北東0.5㎞ほどにあった氏の大邸宅は、OER3001氏が住んでいた場所の直ぐ近くだったことから、ヨットが置かれていた庭で遊んだ思い出があります。招き入れてくれたのはご子息の一人だったようです。
その千歳船橋駅、北側(山側)から見た今の姿です。胸像の設置場所は右端の高架下です。
OER3001氏の記憶に残る千歳船橋駅の姿はこれ。
学校から帰るとここへ行き、行き交う電車を見ていて・・・。駅員さんもいつしかその小学生を覚えてくださり、事務室内に招き入れておやつをくれたりしました。駅や駅員さんが地域に溶け込んでいたという良き思い出です。右の交番には、拾った10円玉を届けた思い出でもあります。10円玉を預かったお巡りさん、「ぼく偉いね、ありがとう。これしっかり預かるから、ご褒美に・・・」と言って自分のポケットから取り出した10円玉をくれました。
そんな素晴らしい思い出は、ほぼこの時代。ボルダ版フィルムの玩具カメラによる撮影で、近年着色してみた画像ですが、ここに写る跨線橋や上屋は、高架化工事まで健在でした。
高架化工事開始直前に訪れた時は、ホームこそ延伸されていますが雰囲気は昔のまま。営団6000系も古の記録になってしまいました。
高架複々線となった今は、同じようなアングルで撮ろうとすると、8両編成の2000形をはじめとして10両編成の最新鋭5000形まで停車します。
通過列車の撮影にも良い場所ですが、床下機器の撮影にも適する駅になりました。是非一度、電車の撮影に訪れたら改札を抜けて、『森繁通り』の散策をされては如何でしょう。
久しぶりに「過去vs現在」。フィルムの変色で見苦しい画像ですがお許しください。
30㎞/hの徐行予告標識があるのは、2回目の新宿駅大改良工事が進んでいた時代。2872先頭の準急・江ノ島、今は引退して見ることが出来ない車両と、新宿発では消えた行先。後方に見える跨線橋は、1973(昭和48)年12月20日まで使われていた旧南新宿駅のもので、取り壊し前です。参宮橋方に150m移転した、新しい南新宿駅上りホームからの撮影でした。
ほぼ同じ場所からの現況は、車両はステンレスの3000形に代わり、延長されたホームには上屋が設けられたため、空が見えない景色になってしまいました。
空を仰ぐには広角でなければなりません。そうすればニューヨークマンハッタンのエンパイヤステートビル擬きのDocomoビルを画面に入れることも可能です。
1日平均乗降客数が3,000人強と、小田急の中では足柄駅と並ぶ最下位クラスだそうです。
50000形VSE乗り納めとして昨日掲載した箱根湯本、ほぼ同じアングルで、34年前には就役間もない10000形HiSEを撮っていました。
前面展望の連接車というのが小田急ロマンスカーのカタチだったのが、VSEの引退と共に消滅するのは悲しいことです。
(再掲)
箱根湯本駅周辺もつぶさに観察すれば、線路には保護柵が設けられて電車の下回りが遮られるようになってしまいました。石垣も手前に植栽が成されて隠れてしまいます。
さらに10年遡ること44年前は、ロマンスカーは3000形SSE車と3100形NSE車の時代。箱根湯本に到着しようとする花形の3100形NSE車を撮っています。
先日の発車して行ったVSEの後ろを狙った一枚とほぼ同じアングルです。
線路保護柵、石垣前の植栽に加えて、架線柱、道路標識など、変わったものを探してみるのも楽しいです。
今は高架複々線となった豪徳寺駅。1973(昭和48)年9月の記録がありました。まだ夏の強い陽射しのため、ケープアイボリーの5155の顔が飛んでしまっていますがご勘弁を。8両編成の急行、後方は2400形です。
同じ場所の今、とは言っても冒頭に記したように高架複々線となっているのでだいぶ変化しましたが、線形はほぼ同じです。同じ5000形を名乗る2代目5456が急行線を進んで来ました。
下りホーム先端から経堂方向を臨むと、9004先頭の急行が、経堂検車区から始まる上り勾配を飛ばして来ました。まだ96芯ジャンパを使っている時代ですね。
複々線となった今は、線路に勾配が無くなったようです。検車区は喜多見に移りましたが、検車区跡の場所には留置線が設けられ、出入りのポイントが設けられています。
過去の写真を見て、同じ場所の今を辿るのが面白くなっています。
小田急新宿駅の過去と現在の比較、一応今回で区切りを付けたく思います。
新宿1号踏切と言うこの場所からの1968(昭和43)年5月の撮影、と言うよりここは南新宿駅下りホーム端から撮ったものです。新宿西口の14階建て小田急百貨店のビルも、左端には京王百貨店も確認できます。
踏切脇には貨物ホームがありますが、これより以前はここに小田急砂利株式会社の社屋もあり、相模川からの砂利を積んだ貨物列車も入線していました。
そこを花形の3100形NSE車の「あしがら」が通過します。
現在でも新宿1号踏切はありますが、1973(昭和48)年12月21日から南新宿駅は西方へ150メートル移設され、さらに新宿駅の改良により地上/地下の分岐器位置も新宿1号-2号踏切間に移設。さらに線路上に人工地盤を構築しているので、当時と同じアングルでの撮影は暗闇となりました。
やむなく新宿2号踏切からの撮影ですが、この50000形VSEの定期運行も残すところ2ヶ月を切っていますので、これも過去の記録になる日も近いですね。
小田急新宿駅が地上と地下の二層式となったのは1964(昭和39)年のことで、当時は珍しがられたものでした。
その後、何度かの改良工事を経ていますが、地上ホームは特急、急行などの優等列車、地下ホームが各駅停車の発着というのが基本でした。
1967(昭和42)年5月の撮影の中に、地下9番ホーム(5号線)に停車するHB車編成のデハ1217-クハ1351他+クハ1352-デハ12181410-1460の4連の姿を捉えていました。時既に地上14階・地下3階建の小田急新宿駅ビルの完成に伴う最初の改良工事が行われている時で、HB車の新宿口充当最後の時期です。(後記:当時の記録があり、後方2両が1410-1460であったことが判明しました)
同じ光景の今日を撮りたくて2022(令和4)年1月19日、上のプリントを持って同アングルの撮影を試みて来ました。
入線してきたのは1000形1095Fの10連です。ホームドアも設置され、同じようなアングルで電車を撮るのには無理がありますが、ホームドアのお陰で線路が随分と柱に近付いた印象ですが、柱の位置は変わっていません。
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