鉄道(国鉄・JR)

2025年1月21日 (火)

作品展&写真展

久しぶりにE235系などという山手線に乗り、向かったところはここ。

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さかつうギャラリーで開催中の「イチカワ作品展_モケイ鉄道に恋をした」へ。

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OER3001氏にはとても真似できない精密なNゲージ車両群とジオラマが並べられ、イチカワ氏も居られましたが、来場者と話し込まれて居られたのでOER3001氏に気付かず。

そのままそっと失礼させて頂き、次に向かった先は初めて降りる駅。

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駅から直結の新しいホールで開催されている本橋剛氏の写真展「電機」に向かいました。

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広々したオープンな会場に、6×6版モノクロームフィルムによる正方形の写真40点他に、これらの撮影に使われたカメラなど。

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1971年から1980年にかけて、首都圏や東北、上越、中部などで撮った旧型電機の魅力が伝わる作品群でした。

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在廊されていた本橋氏は、最近拙ブログがご縁でお近づきできた方ですが、JACC(全日本クラシックカメラクラブ)の会員だそうで、写真文化の歴史を次世代に残す目的の研究機関としての活動として、今も古いカメラとフィルムを使い続けて居られるとのことでした。

帰り際に素晴らしいお土産を頂きました。明治の機関車がお好きなようで、鉄道院で活躍した機関車図面をMacで描かれたのだと。

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裏面はそれらを活かすために好みの色にした姿。考えてみれば蒸気機関車がみんな真っ黒なのは日本くらい? 英国や独逸も仏蘭西も、素敵な色に塗られていましたものね。

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楽しい時間を過ごした後は、「新」のつかない綱島駅へ。

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ホーム東端に架かる跨線橋形状が、どことなく英国調に思えてしまうのは先のカードの影響でしょうか(笑)。

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地元駅→新宿→巣鴨→目黒→新綱島/綱島→武蔵小杉→登戸→地元駅と、この日は京王、山の手、東急、南武、小田急の乗車となり、10,000歩を越えるウォーキングとなりました。

 

2024年12月 2日 (月)

JR大井町駅の改良工事

海側を東海道線が通過する京浜東北線・大井町駅の改良工事が進んでいます。改良ポイントはこの画像の手前左側。

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りんかい線や東急大井町線との連絡通路を拡張するために、北行き線路の移設を移設してホームを拡張するというもの。

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工事は11月17日に運転を取りやめて実施されました。その前日が上画像、移設後が26日撮影の下画像 。

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良くわからないかと思われるのでので、まだ線路移設に対応されていないホーム上屋で見てみましょう。

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上屋先端は線路のカーブに合っていたものが、線路だけ移設されている状態では斯様な状況で、雨天乗降時には濡れることになります。

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上屋の張り出しは、この後実施されることは間違いありませんが、はたしてどんな様子になるのでしょうね。

 

 

2024年11月28日 (木)

中央快速E233系

所要で出掛けた折、約束時刻まで余裕があったので途中下車。ホームドア設置で撮りにくくなりましたが新宿御苑の緑とエンパイアステートビル擬きを背後に狙っていたら・・・、運良くグリーン車を含む編成が!

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朝10:27、結構乗ってますね。

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OER3001氏は初めて撮りましたが、G料金無料の内に体験乗車しておかねばなりませんね。

 

 

 

2024年11月18日 (月)

松山駅_国鉄からJRへ、そして高架化

OER3001氏が子供の頃は、四国は宇高連絡線で渡る遠い地というイメージでした。そんな四国の松山に初めて行ったのは1978(昭和53)年の出張でした。仕事を終えた17時過ぎ、空港に向かう前にちょっと駅に寄り道していたようです。

2番線(だと思う)にはDF50牽引の客車列車が停車中。

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跨線橋を渡って見に行けば、昭和32年新三菱重工&三菱電機製造の9号機でした。

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運良く、今治方から到着するのは急行「うわじま」。

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急行「うわじま」は17:34だったでしょうか、松山駅を発車して行った後に、DF50牽引の普通列車が発車して行きました。

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四国はディーゼル王国と呼ばれていたものです。

12年後となる1990(平成2)年に、再び出張の機会を得て松山に行った時には国鉄はJR四国に代わっています。この地を代表する企業の看板が掲げられていて、これが民営化なのだなと。この内の一つが、この出張の目的でした。

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車両はJR四国カラーになり、松山駅西側に広がる車両基地は目の保養になりました。予讃線の電化が進められていましたが、まだまだディーゼルが主役でした。

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仕事を終えてからの空港に向かう間の時間を有効活用、車両基地の南北に移動して撮影できました。

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その松山駅、前も画像と比較すると・・・、駅舎そのものは建て替えられていなかったものの、中央に三角屋根が増設されていたのですね。

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構内に入るとホームの人影はゼロ。高架新駅に以降した直後だったのです。1978年や1990年の時の思い出が蘇って来るようです。

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高架新駅には7000形単行が入線して来ました。

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その横には特急「宇和海」のN2000系気動車が。

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こちらの特急「宇和海」は2000系なのですね。

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そんな松山駅はこれから旧駅の解体と再開発が進むようで、車両基地が拡がっていた西側からは奇麗になった高架線を見ることができます。

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残念なことにこの後の豪雨で、高架下の駅施設と商業施設が水没。自動改札機などは取り換えになったようで、折角の新駅は災害対策が脆弱だったようで反省しなければなりません。

 

 

2024年10月31日 (木)

広島のホテルで楽しむ

単独での鉄旅ではなく妻と一緒では、それなりにサービスしなければなりません。新幹線「のぞみ」もそうですが、ホテルにも気を使います。

30階の部屋を取ったお陰で朝には素晴らしい自然のサービス、西の方向にが‼ 左は厳島あたりから右は「エディオンピースウイング広島」の向こうへ。

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前日にはあれほど賑わっていた原爆ドーム周辺にはまだ人影は無く、ちょっと寂しい原爆ドーム前電停を発車したのは800形のようです。

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身支度をして朝食会場である最上階のレストランに向かうと、早朝の人影の無い平和記念公園の向こうには厳島が望めます。

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そして正面には、広電宇品線の軌道と広島港辺りが。こんな素晴らしい眺めでは朝食もままなりません。

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折角、客室とは反対側の、東南側の角テーブルを用意してくださったので、これを活かさなければ勿体無い。

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広島港から広島駅に向かう5車体の5100形グリーンムーバーマックスが、眼下の紙屋町交差点を行きます。

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代わって今度は3車体の1000形グリーンムーバーLEX。

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宮島口から広島港に向かうのは3100形でしょうか。元京都市電の1900形と交換です。食事を口にしては撮る。撮ってからまた食すの繰り返しです。

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東方を見れば新幹線! 貨物ターミナルを右に見て、東京方面に向かっていきました。

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ということで、リッチな気分でゆったり朝食と言う状況ではなくなってしまいましたが、妻は満足してくれたようで一安心といったところでした。

 

 

2024年10月13日 (日)

新幹線60年だって

実はその日のことより、前日の151系特急電車引退の方が強く記憶に残っています。東海道の花形は、何と言っても「こだま」「つばめ」でしょ。

と思っているシニアの一人ですが、「夢の超特急」も現実となって「夢」はとっくにどこかに消えてしまったような。現実に戻ってその新幹線の画像を探してみたのですが、流石に開業時の画像は無し。それでも1964(昭和39)年の東京オリンピック開催期間中に、父がハーフサイズカメラでこんなの撮っていました。浜松町駅ホームからですね。上には「空を行く」東京モノレールの軌道が。

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振り返って下り列車も撮っていました。それにしてもこの辺り、汐留に出入りする東海道貨物列車が一時停車していたのですね。ワム90000に交じって、レ2900らしき冷凍車やツム1000なども確認でき、貴重な記録です。

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東海道貨物列車と0系新幹線電車、ほぼ10年後の1975(昭和50)年2月に根府川で、捉え損なった1コマがありました。牽引機はEH10に交じってEF65が活躍し始めていたようです。

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さらに20年以上が経過した1997(平成9)年の大晦日、富士山バックのこの撮影地で捉えられたのは2階建てグリーン車を含む100系でした。

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さらに26年後となる2023(令和5)年に於ける富士山バックの新幹線は、車両はN700Aに代わり・・・

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さらにN700Sの導入による車両交代が進められています。

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この新幹線技術、開発に当たった先人は凄い。その魂はしっかり受け継がれているのだろうか? 最近不安な事故が続いて心配しています。

 

 

2024年10月 9日 (水)

豊橋でお遊び

関西方面に出掛けた帰路は、特別の制約が無い限り近鉄で名古屋、名鉄で豊橋というルートを楽しみます。そして豊橋で上り「こだま」を待つ間の時間の使い方がこれ。

先ずは18:31、N700Sの「のぞみ」が飛び込んで来ます。カメラをしっかり構え、列車に合わせて左に振ります。

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あっという間に過ぎ去って、息つく間もなく18:32に下りN700Aの「のぞみ」が。今度はカメラを右に振っていきます。

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今回はISO25600、シャッター速度を1/1000秒としてみましたが、シャッターはもう少し遅くした方が動きが強調されたかも知れませんね。今後の課題です。

 

2024年9月23日 (月)

900,000アクセスに到達

昨9月22日未明に、アクセス数が90万に到達しました。いつもご覧頂いている皆さまありがとうございます。

そこでご期待(誰が期待してるって?)通り「90」に因んで、撮って来た写真を探したのですが90形はこれだけでした。クモハ101 900番台となってからの姿ではありますが、元はモハ90 500番台の奇数車。小田急2220形同様の箱型ベンチレーター、雨樋が埋め込み式ですっきりしていました。

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こちらは鉄道博物館にあるモハ90 500番台偶数車(パンタ付き、その後のクモハ100)の模型ですが、車体にはクモハ100-901とあります。

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鉄道博物館でクモハ101-902が保存展示されていますが、雨樋は外付けに改造され、ベンチレーターも箱型からグローブ型に変えられた晩年の姿なのが残念です。

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小田急には9000形がありました。斬新な姿でデビュー間もなくの試乗会では9002×4に乗車しました。

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その9000形は、サンフランシスコのBARTを連想するような斬新なフェイスで登場していた営団6000系に引けを取らないデザインをと、開発された車両でした。

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営団千代田線との相互直通運転のために開発された9000形は、1978(昭和53)年3月31日から千代田線への直通運転に活躍しました。

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モハ90形も9000形も既に引退した車両ですが、鉄道車両の歴史に刻まれる革新的な車両でした。

 

2024年9月15日 (日)

たまには斯様な車両も

国民の祝日「敬老の日」はもともと9月15日。ず~っと箱の中に収められたままでは可哀そうと言うことで、先日のシニア運転会に持って行った“高齢車両”。

青22号に塗られた73系の2両編成。富山港線で活躍していたクモハ73 355とクハ79 244で、1974年3月に入籍して来たWD氏のペーパー自作品です。

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OER3001氏が初めて訪れた1975(昭和50)年の城川原車庫には、車体更新を受けた車両しか居ませんでした。

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今となっては若かった時代の思い出。昔の車両が懐かしくなります。

 

 

2024年6月27日 (木)

神戸・川崎車輛

OER3001氏が鉄道に興味を持ち始めた小学生時代、3年生だか4年生の時だったか、車内妻板上部に製造所のプレートが取り付けられていることを知りました。当時の小田急線では吊り掛けのABF車までは真鍮エッチング製、カルダン車からはアクリル製に変わりましたが、2200形の1次車は真鍮だったかな?記憶がはっきりしません。ABF車でも車体更新されて車内が化粧板になったのはアクリル製でした。

そして覚えたのが「日本車輛」「川崎車輛」「東急車輛」。何れも学校で習った「車両」ではなく「車輛」だったことを鮮明に記憶しています。

神戸に行ったのなら、「川崎車輛」をこの眼で確認しないわけには行きません。和田岬線に乗ったのも、それが理由でした。和田岬駅から歩き始め、神戸市電を見たら直ぐ運河。「兵庫運河」だったのです。運河の右手に、青いシートが掛けられた完成車両が何両か見えました。

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兵庫運河を渡ると左側が川崎車輛の工場地。その先の“隙間”を、和田岬線の207系が通過して行きました。

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この先を左折すれば、工場の中央を横切れる公道なのですが、そこから工場方向へは「撮影禁止」と大きく表示されています。

紳士的なOER3001氏は、首から下げたコンデジで隠し撮りなどと言うことは致しませんでしたが、EF510、JR北のH100、JR西227系のような姿を確認しつつ通り抜ければ、もう一つの橋向こうに、社屋の前に0系新幹線と憧れのこだま型電車が並べられているのが見えます。

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残念ながら土曜社休日と言うことでもあり、敷地内には立ち入ることはできないので、公道からその姿を眺めるしかありません。

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それでも社屋のロビー内、ガラス越しに台車や模型が展示されているのが見えます。台車は1949(昭和24)年に製造され山陽電気鉄道831に装着されたOK-3形だと言うことです。

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結局この日は、和田岬駅から兵庫駅を通り過ぎ、神戸高速線大開駅まで歩くと言う、良い運動になりました。

 

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